2015年12月22日火曜日

僕が生きるために

・「本当の絶望」―このクリスマス、僕にとって間違いのない一つのキーワードだ。

・最近、太宰治を読む。そして、今日遠藤周作『海と毒薬』を読み終えた。それは日常の傍らにある小さな黒い穴ぼこが、どこまでも深く悲しい深淵へと繋がる恐怖を淡々と描いた作品であるように感じた。

・僕が太宰を読む理由。それは、そこに人の「本当の絶望」があるように思うからだ。突き詰めたリアリズムがそこにあるように思うからだ。人間であることの本質が、そこにあるように思うからだ。彼が描く人間は、まったく浮世離れしていないし、ファンタジックでもない。それは、まぎれもなく今日を生きている僕を映す鏡だ。そこにいる登場人物たちが淡々と破綻していく様子を見て、僕は通勤電車に揺られながらその姿に自分を見ている。

・それは、決して僕が破綻していくということを意味しない。しかし、僕が破綻するような存在であることを意味する。それは、おそらく僕のもう一つの末路を表す鏡なのである。だから太宰の作品も、遠藤周作の作品も、僕にとっては恐怖すら感じるものなのだ。僕がそこにいるようなリアリティ。いや、僕がそこにいたらきっと僕もそうなっていただろう、そうなっていたに違いないという確信が、僕の中にニョキニョキと生えてくる。その瞬間の恐怖は、何とも表現し難い生理的な恐怖である。

・自分の罪、ということを考えるとき、僕はこの太宰や遠藤周作の作品が持っている人間存在への絶望的なリアリズムが欠かせないように思う。そこには、間違いなく人間がいる。助けを求めている人間がいる。今日僕を含めたほとんどの人が目を背けている人間の凄惨な現実が、そこにはドロッと流れている。

「彼は死ぬために生まれた。僕は生きるために生まれた。」

・夜、一人で部屋で聞いた或る賛美は、僕に重い重い事実を伝えた。僕が生きるために必死になっている時、ただ死ぬために、生まれて来られた方がいた、という。

・本当の絶望。それは、人間存在が抱えている破綻への傾向である。本当の絶望。それは誰のことも信じられない猜疑心である。本当の絶望。それは、自分に価値がないという確信である。

「彼は死ぬために生まれた。僕が生きるために生まれた。」

・彼は、僕「が」生きるために生まれて来られた。僕に価値があるといって、それだけの価値がお前にはあるんだと叫んで、僕が必死で生きるために、生まれて来られ、死なれたのだ。イエス・キリスト。

・今週は、ただただこの事実を噛みしめて生きる一週間にしたい。

2015年12月11日金曜日

待降節、痛みの中で

「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。」
―コロサイ3:15


・この言葉が、何度も心を巡る。キリストの平和が、僕の心を支配してくれることを心の底から願う。そしてそれは、僕の心が本当にざわついている証拠でもある。

・どんな時に心がざわつくのか。それは、心の傷に何かが触れたとき。そういうとき、僕は攻撃的になる。まるで何かを必死に守るかのようにムキになる。それは巣を守る蟻のように慌てふためく姿。

・その根底には、恐怖がある。自信のなさがある。これでいいのだろうかという不安がある。だからこそ、怖くなる。指摘されると、そこが疼く。図星だから、ムキになる、感情がむき出しになる。そんな自分が到底受け入れられなくて、泣き寝入りする。けれど、まったく眠くない。眠れない。

・最近太宰治を読む。響くものを感じる。人間の一つの真の姿があそこにまっすぐ描かれているように思う。だから、ちょっと安心すらする。けれど、そこに平安はないし、ましてや解決などない。あるのは絶望、混沌、闇である。一寸先とは言わない。もう、そこが、闇だ。


「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。」
―ヨハネ1:9

・待降節、と呼ばれるこの季節。降誕を待つ季節、だ。降誕。そう、主イエスは「降りて」「誕生」された。すべての人を照らす光。まことの光。世にこようとしていた。その世は、まさに闇である。


「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」
―ヨハネ1:4

・「主イエスよ、来てください。」という言葉で、聖書は終わってゆく。この祈りを、いや、叫びを、僕はこの季節、『斜陽』片手に祈りたい。主イエスよ、来てください。私の心の傷に、この世の闇に、私の心の疼きに、この世の痛みに、主イエスよ、来てください。


「『しかり。わたしはすぐに来る。』アーメン。主イエスよ、来てください。」
―黙示録22:20

2015年12月1日火曜日

大規模工事

・ぼんやりと、しかし確かに続く不全感がある。何度も振り払おうとしているが、しかし間違いなく心にどっしり腰を下ろしている無力感がある。打ち勝とうと戦いを挑むが、しかし必ず打ちのめされる自分の怠惰さがある。

・最初は単なる働きすぎ、休みの無さからくる疲労感と結果かと思っていたが、必ずしもそうではないかもしれない。これらの一連のことを通して受けた影響は、思った以上のものだからだ。

・まず、この状態からなかなか回復しない。というか、もしかしたらそもそも回復なんかしないものなのかもしれない、と最近は思うようになってきた。体の疲労であれば、休めば治る。しかし、休んでも休んでも、募るのは罪悪感や働けていない不全感で、体と心のバランスは崩れていく感じがする。

・そして、その状態は人との関係をめんどうに思う傾向へと自分を引きずり込む。人と会いたくない、話したくない。そういう思いになる。そして、ふとしたときに自分と全く関係のない人に自分の感情をぶつけたくなったりする。このアンバランスさも、今の自分の特徴だ。

・やる気がわかないからやりたくない。このロジックが自分の中では思った以上の地位を占めていて、やる気がないのにやらなきゃいけないというのが、思った以上にストレスになっているのではないか、というのが、現時点での自分についての精一杯の分析だ。

・やる気のルーツは、ほめられること、評価されること。思えば、大学を卒業するまで、そのやる気が絶えることはなかった。課題、レポート、宿題、バイト。すべての働きで、ほめられ、評価されることを目指していたし、それを得て、原動力にしていた。

・今の働きが評価されていないわけではない。しかし、少なくとも評価を原動力とする生き方では行き詰まる働きであることは確かなようだ。身をもって、それを、感じる。痛感する。

・とするならば。変わるべきは、僕の原動力のシステムであり、生き方そのもののロジックなのか。そう思ったら、そりゃあ疲れるし辛いよなぁと、妙に納得している自分が居た。

・『2,3日で得た変化は、2,3日で失われていくよ。』ある先輩主事の言葉が響き始める。そうだなぁと思う。これは、僕が思ったより大規模工事なのかもしれないと、思い始めた。そう思ったら、完成図をおぼろげに見ながら、ほんのちょっと、でも確かな期待の灯火が心に灯った気がした。





2015年11月24日火曜日

MOROHA

・凄まじいアーティストに出会った。その名は『MOROHA』。タイトで技巧的なギターと、そのリズム感を揺さぶる魂の叫び系ラップ。こんなに歌詞が心を鷲掴む音楽は久しぶりだ。

・中でもこの『革命』という曲は、本当に心を揺さぶってきた。


・『飲み会の帰り道に突如やってくるあの虚しさ、あれ、やばくね?』という問いかけから始まるこの曲。現代の若者の心の本当の奥にある、仕舞い込まれている本質的な叫びに届く言葉が並ぶ。等身大の歌詞が汗のように飛び散って、聞き手の心に染み込む。

・頼るものがない暗さ、先が見えないことへの不安、がむしゃらに生きることへの渇望。いのちをどう生きていくかということに、思いっきりぶつかってやろうという青さが光る。

・この世界観がどうこう、ということの前に、こんな等身大の体液のような、内臓から湧き出るような言葉を持つものになりたいと強く思った。

2015年11月21日土曜日

ステージ

・若さ、ということを考える。年相応、ということを考える。『人生のステージ』という言葉を、考える。

・綺麗に歩みたい、恥をかきたくない、うまくやりたい、うまく見せたい。そんな思いはなかなかに強い。道を外れたくない、外れるにしても、外れていない外れ方をしたい。綺麗に着地したい。そんな思いは、魂のわりと根元に近いところからきている気がする。

・焦りがふわっと、なくなることがある。いい意味で、どうなってもよいと思える瞬間がある。これは大人になるということなのか、ほんのり不安になる。もっと掻き立てられるようなエネルギーに突き動かされている自分を、どこかに求めている自分がいるのかもしれない。

・改めて、与えられている働きから、自分の位置を考えたい。遣わされた地とはどこなのか、どんな場所なのかを考えたい。『焦り』も『焦りのなさ』も、それ自体の有無よりも、それがどこからくるものなのか、ということの方が、大事なポイントなのかもしれない。

2015年11月18日水曜日

長い単位で

・凄まじい眠気の中で、中央線に乗る。今週は働きのピーク。目まぐるしく過ぎていく日々の中で、本当に大切なものを見失いたくはない。

・ここ最近、将来のことをずっと考えている。2年後、5年後、10年後。自分はどこにいて、誰といて、何をしてるのか。それは決してわからないことだけれど、今からそれを考えて、その時点で吟味して、目の前の一歩を踏み出すことには、間違いなく意味があると思う。

・長い単位で物事を考えると、手放せない!と思っていたものや譲れない!と思っていた条件が、案外大切ではないことに気付いたりすることがある。そして、それを手放すことで、今まで見えていなかった『第三の道』が見えてくるのである。

・改めて、よくよく考えることだ。長い単位で、人生論的に、目の前の出来事を問うことだ。そこから、自ずと一歩目は決まってくる。そして何より、変わることを恐れないことだ。



2015年11月16日月曜日

知ろうとする愛~パリの事件から思うこと

・パリのテロには衝撃を受けた。そして、それに報復して、ISの「首都」を爆撃するというフランスの対応には、さらなる衝撃を受けた。憎しみが憎しみを生む。これは戦争だ。国家間の争いだから戦争だと言われるけれど、根本を正せば、僕と誰かが憎しみ合って、やり、やられ、やり返し…という連鎖を生み出すなら、それはまぎれもなく戦争なのだと、改めて気付く。

・Facebookのアイコンがフランス国旗の色に染まっていく。それを批判的に見る人がいる。それを批判的に見る人を批判的に見る人がいる。それが、顔と顔を合わせてみんなで話し合っているのなら、すごく建設的で、愛に満ちたものになりえるだろうに、SNSという、暴力的に無機質であるにも関わらず人格の深い部分までが垂れ流しになってしまう恐ろしい空間で行われることで、批判は気付けば憎しみとなんら変わらない感情を生み出している。これがまた、SNSの限界点を示しているのかもしれないと、僕は沈黙するしかない自分をちょっとストレスに思いながら納得させている。

・ある尊敬する人は、アイコンをフランス国旗の色に染めることで哀悼の意を示すことができるなら、それをしてもいいという。哀悼の意、それはまさしく愛なのだろう。悲しむ人とともに悲しむ、ということの実践なのだろう。僕はそれを本当に尊いことだと思う。アイコンが何色だろうが、家族を突然奪われた方々に、痛みと絶望の中にある方々のために、とりなし祈り、その悲しみをわが悲しみとすることは、尊いことだし、するべきことだ。愛され、赦された僕だからこそ、それをしたいと痛切に思うし、する。慰めは十字架にあることを、伝えたいと強く思う。

・そして、そこから、他に傷んでいる人がいることを指摘する批判者や、ナショナリズムの危険性を指摘する批判者がいることもまた尊い。盲目的になっている視点を、一つ客観的にしてくれるからである。みんなが一つの思い、感情であることはできない。ましてや、その批判者の心の中には、被害者の方々への哀悼の意が欠如しているかのように見えてしまうこともあるが、必ずしもそんなことはないだろう。いやむしろ、関心があるから、このことに目を向けているから、コメントがでるのだと、理解する心を、僕は持っていたいと思う。

・祈ろう。心から慰めを求めよう。神様だけが慰め主であることを伝えよう。彼らの痛みに寄り添いきれない自分の貧しさを知ろう。結局のところ、それが僕のできる数少ないベストなのだと思っている。

・下北沢のカフェには、英語を必死に勉強し合っているおばあちゃんが二人いた。新しいことを知り、吸収しようというその姿に、他人ながらに心打たれた。人間関係の基本は、知ろうとする愛。知る、という言葉は、人格的な愛を示す。聖書では知るという言葉は、しばしば性的な交わりを意味することもあるほど。交わりの本質に、知る、という行為は位置づけられている。

・パリで起こったこと、その被害者のこと、加害者のこと、パリ以外で起こっている同様の事件のこと、自分の国のこと、家族のこと、友人のこと、苦手なあの人のこと、遠くにいる友達のこと、世界の貧しさのこと、自分のこと、神様のこと。知ろう。知ろう。知ろう。知り続けよう。それが、僕たちのできることなのだと思う。

2015年11月11日水曜日

人を信じる

・人を信じる、とはどういうことだろうか。

・人は人と生きている。人はひとりでは生きていけない。これは本当にその通り。僕自身、本当にそれを痛感している。創世記で『地を従えよ』と命じられている人だが、地のすべてをひとりで従え、管理するのは不可能だ。知らない地、わからない地がある。例えば人を『地』と見たって、単純だ。世界中の人と会えるわけではない。とすれば、本当に交わりで地を従える必要を感ずる。僕には届かない地がある。そこに届く人がいる。僕はその人と共に、地のすべてを従えていくのだ。

・その時に、その人のことを僕がどのくらい信じることができるか、という問いが心に浮かぶ。僕には届かない地に、その人が届く。そのことを、どのくらい僕は喜べるだろうか。自分では届かない地なのだ、ともすれば敗北感や劣等感も湧くだろう。そこで、他のすべてを従えよ、という命令が、民全体で受け取り遂行すべきことであることを、心で覚え、噛み締めていられるか。それが、その人への信頼という形で試される。

・人は究極的には信頼できない、という部分は否めない。最終的に、僕たちが信頼できるのは神様のみなのだと思う。神様がその人を共に働く交わりの一員として、私の眼の前に備えてくれたと信じて、共に働くことが、その人を信じるということなのかもしれない。


2015年10月19日月曜日

励まし励まされ

・今週は特別に忙しい。しかし、メッセージを準備する中で、10月頭に感じていた燃え尽き感が少しずつ解消されていくのを感じる。どんな状況にあっても主は私と共に歩んでくださっており、支え励ましてくださっている。自分がしている働きが、僕の働きではなく主の働きであることを改めて痛感する10月の働きとなっている。

・たくさんの学生と会う中で、自分が学生に励まされていることを思う。KGK主事という働きは本当に不思議で、与える働きのみならず、与えられる、励まされる、ということも働きの大きな部分らしい。そのことになれるのに一定の時間がかかった。しかし、今は、本当に学生に励まされ、同労者の説教に養われ、与えられる者として、その働きを全うしたいと強く思わされている。

・今晩はゴスペル。イエス様をまだ信じていない愛する仲間たちに福音を語る月一回の夜。いつもこのメッセージはどうしても原稿が書けない。今日はマルタとマリアの話から話そうと思っている。たったの10分間だが、僕にとってはとても大きな10分だ。神様の福音が伝わりますように。

・サンマルクのウインナーコーヒーは不思議な味がする。どうでもいいが。

2015年10月14日水曜日

アイデンティティ

・10月もあっという間に半分、明日から後半に入っていく。4月から今までの歩みはすごくゆっくり感じているし、4月なんてもうずっと前のような気がするが、夏を越えたあたりからちょっとずつ体感速度が加速しているように感じる。

・最近ちょっとやる気が出なかったり、そういう時期を味わっていたのだが、少しずつ回復傾向にある。回復のきっかけは、多摩ブロックのメッセージ準備かと。みことばをゆっくりじっくり読む中で、『ああ、本当に神様は生きておられるし、共におられるんだなぁ』と感動し、落ち着いた。

・焦るのは、疲れるのは、自分の手で握りしめているからなのかもしれない。僕はテキトーな人間だから、委ねるということばで怠惰になってしまうし、委ねられてないのに仕事はしないとかってこともできてしまう。神様が一緒にいてくださるってことを覚えながら、ゆっくりひとつずつ働いていきたい。

・学生から社会人へ、という変化も案外大きいかもしれないと最近思っている。学生時代は、いつ学生が終わるかっていう、学生というアイデンティティの有限性を常に自覚させられていた。だからこそ、逆説的だけど、将来のことを真剣に考えたし、タスクベースではなく、アイデンティティベースで、将来を考えて問うてた。でも、社会人になると、アイデンティティの有限性みたいなものを感じる機会がぐっと減る。むしろ、半永久的にアイデンティティが固定化するような感覚のほうが大きい。そうなると、将来のことをリアリティをもって考えられなくなったりする。

・そもそも社会人としての自分のアイデンティティが有限のものということはしっかり胸に留めておきたい。そして本当に永久である永遠の命、救われたものというアイデンティティをもう一度噛み締めたい。

2015年10月7日水曜日

次の一歩はいつ訪れる

・本当に久しぶりのブログ。記事を読み返すと、約一か月か。かけない時期は、かけない。そう割り切って、別にいいやと思うようにしているので、あんまり落ち込んだりはしないけれど、やっぱりこんなにもかけないと、ちょっと残念感はある。

・この数日、今までの人生で味わったことがないような無気力に襲われている。何もする気がおきなかったり、向上心がまるで出てこなかったり。今まで、よりよくなろうという思いが常にあって、それがひとつのエナジーになっていたので、こんなにも推進力がない状態は生まれて初めてかもしれない、というほど。別にどうでもいいとか、面倒くさいとか、そういう思いが非常に強くなっている。

・そういった状態のことを、同期のY主事に分かち合う。彼は非常によくわかってくれる。なんか、こういうときに「とどまろう」と思える交わりが与えられていることは、よくわからないけれど本当に神様の恵みだと思う。一人では決して立ち上がれないとき、交わりが与えられている。交わりがおっくうに感じられたり、交わりから逃げたいと思うことも多々あるが、そういうときこそ、交わりにとどまることが、最後の砦になっていたりするから、丁寧に、諦めずに向き合い続けたい。

・自分の怠惰さ、罪のことなど、深く、深く分かち合う。これからのこともじっくり考え祈る。何も問題は解決していないし、いまだにぬぐえない無力感があるものの、こうした大事な同期の同労者が与えられていることは、素直に感謝したいなと思わされた。何も改善していないけれど、次の一歩がいつ訪れるのか、どのように始まるのかを、ゆっくり思索していきたいと思う。

2015年9月7日月曜日

川の流れのように

「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。―主の御告げ。―それはわざわいではなくて、平安を与えるための計画であり、あなたに将来と希望を与えるためのものだ。」
エレミヤ書29章11節

・神様を信じて生きていると、「神様の導き」という言葉を口にしたり、実際に求めたりする。自分がこれからどういう歩みをしていくのか、どこに向かっていくのか。そのための道しるべを求めて、「神様のお導きが…」と祈るのだ。

・一方で、自分の人生、結局選択し決断するのは自分の脳みそと経験だ、という思いもある。自分が選ばなければ、歩みは進んでいかない。神様の導きというものは、何もエスカレーターに乗っているような、立ったままで気づいたら次の階へ、というようなものではないようだ。

・そこで、出てくるのは「神様の御心を選べるか」ということだ。目の前に分かれ道。どちらかの道が神様の導きで、どちらかは、違う。そんな感覚、案外誰にでもあるのではないだろうか。どちらが正しいのか、ということだ。これは判断基準をさまざまなものに当てはめれば、おそらくほとんどの人生の選択と決断において誰しもが味わう感覚だろう。そこで、「神様の御心を選ぶ」ということを、真剣に悩むようになる。しかし、一方で、神様の御心が、そんな二者択一的な冷たいものではないはずだという思いもある…。

・最近、僕が感じているのは、神様の導きは、川の流れのようなもので、自分はそこを泳ぐ魚のようだということだ。神様の御心には、川が山から海へ、上流から下流へと流れているように、確固たる、変わることのない一つのベクトルがある。そして、僕(魚)は、その流れの中を泳いでいるのだ。こっちかな、こっちかなと試行錯誤しながら、大きな神様の御思いの流れに乗っている。

・時には川を遡りたくなるときもある。流れに逆らって泳ぐとき、体力を使う。そして、少しずつ、少しずつ、川の流れに促されて、方向を転換していく。神様の御心、御思いの流れる方向と、自分が泳ぐ方向が、少しずつ重なっていくような感覚だ。これが、「取り扱われる」ということだろう。

・何があっても、神様の川の流れの方向は変わらない。時には水しぶきが飛び散るような激しい流れだろう。時には動いているかもわからないような緩やかな流れだろう。しかし、間違いなく海へ、将来と希望を与えてくれる海へ、御心の川は流れている。僕はその流れの方向をいつも全身で感じながら、そしてときに異なる方向へ泳ごうと頑張りながら、優しい流れに促され、少しずつ少しずつ、神様の偉大な、そして圧倒的な愛に満ちた、川の流れの中で、取り扱われていく。それが、僕の人生なのだろうと思う。

2015年9月4日金曜日

今を生きる

・昨日は久しぶりに、大学の時にすごく影響を受けた友人と会った。彼とは一年生の夏に一週間一緒に旅行をして、本当にいろんなことを考えさせられた。高校まで本当にその瞬間を楽しんで生きていた僕にとって『考える』ということの原体験が、その旅行にはあった。

・彼と話す中で、一つ気付かされたこと。それは、僕が『今の自分がしていること』を『未来の自分のため』として説明しようとしすぎているということ、そのためにこの今自分から湧き出る衝動的なエネルギーを、どこかで押さえつけているということ。

・僕は『わからない』のが嫌いだ。『説明できない』のも嫌いだ。言葉にできないことは、なかなか信じられず受け止められない性格だ。(まあ、だからブログを書くのだが。)しかし、最近薄々、自分の中に衝動的なエネルギーがあって、それがまだ言葉化されていないことに気付きはじめた。そしてそれをカッコつけて、『ビジョン』と呼んで、わかった気になろうとしていることにも気付きはじめたのだ。

・僕が今こうして生きていること。KGKとOCCで働いていること。あの学校に訪問すること。夏期学校に行くこと。メッセージを準備すること。その一つ一つは、将来の何かのためというよりもっと『今』『目の前』のことなのかもしれない。少なくともそういう側面は否定できない。彼と話していて、そんな風に思わされたのだ。

・説明できないことを、無理に説明しようとしないこと。その得体の知れないエネルギーを、グッと受け止めること。そんな若々しい生き方を、もうちょっとしてもいいかなと思わされた。

・結局。あんまり、背伸びしないほうがいい。ちゃんと踏ん張って、足の裏全部地面にくっつけて、そこから見える景色が、僕の目から見える景色なんだろう。




2015年8月31日月曜日

至る所で

・今日から「コリント人への手紙第一」を、朝のディボーションで読み進めていくことにした。今日は、1章1節~3節。僕は、パウロの手紙の書き出しににじみ出る彼の思いをくみ取るのがすごく好きだ。

・今日の箇所で特に心に留まったのは、2節「私たちの主イエス・キリストの御名を、至る所で呼び求めているすべての人々とともに」という言葉だった。なぜだろうか。

・それは、この夏、自分の教会以外の人と交わることが本当に多かったからだ。それと同時に、自分の教会のことを一番悩み考えた夏でもあるからだ。日本長老教会の青年夏期伝道で、リーダーとして自分の教会に赴き、他教会の青年たちと一緒に自分の教会で奉仕した経験は、間違いなくこの言葉を意識する僕の背後にあるだろう。

・「至る所」という言葉は、散らされているイメージと結びつく。会うことはなかなかない。普段は別の場所で礼拝をささげている。会えないと、孤独を感じたり、心細さを感じたり、仲間はいないんじゃないかと思ったり、この世の流れに押し流されそうになったりする。しかし、そんな私に、パウロは「主は私たちの主であるとともに、そのすべての人々の主です。」と高らかに宣言する。そう、主は場所の空間的制限を受けず、至る所にいる、会いたいけれども会えない、いや、まだ一度も会ったことすらないあの兄弟姉妹にとっても「主」なのだ。そしてその主がそういう主だからこそ、私たちは互いに兄弟姉妹と呼び合うことができるのだ。

・各学校に散らされているキリスト者学生ひとりひとりのことを思う。彼らもまた、至る所にいる。そして、そこで主イエス・キリストの御名を呼び求めている。主は、私たちの主である。父である。私たちを聖徒として召し、歩ませてくださる主は、生きておられる。

・心細さを抱く必要がない理由は、そこにある。一人ぼっちだなと思うとき、私は「主イエス・キリストの御名を、至る所で呼び求めているすべての人々とともに」あるからだ。孤独だなと感じるとき、私は「主イエス・キリストの御名を、至る所で呼び求めているすべての人々とともに」あるからだ。そのことを確信させられ、今日一日を歩んだ。本当に励ましだった。もちろん会うことは力強い励まし。しかし、会わなくても、私たちは「ともにある」のだ。主イエス・キリストによって。

・キャンプを終え、さみしさを覚えることが多い8月の終わり。主事になっても、そのさみしさを覚えることに変わりはない。しかし、そんな時期に、主は御言葉で励ましてくださった。インマヌエルと呼ばれ、実際にこの地に降りてきてくださったイエス・キリストに期待して、9月の歩みを始めたい。

「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)―マタイ1章23節。

2015年8月28日金曜日

怒鳴る夢

・この三日間連続で、人を怒鳴りつける夢をよく見る。怒鳴る理由は、ちっぽけだが、正当的なもので、クレームだったり、いじめられてその反撃としてだったりする。胸につっかえたものを吐き出すように、大声で泣き叫ぶ。そんな夢を三日間連続で見ている。

・大声で力一杯泣き叫び、その感情と声がマックスに達した瞬間、ふわっと目が覚める。息が荒くなっている。

・夢に何か啓示的な意味があるというわけではないが、夢は、僕が見るもので、僕自身がどんな状態にあるか、ということを考える材料として決して不十分なものではないと思う。

・別に何かを我慢しているわけでも、抑圧されているわけでもない。と今の僕は自己認識している。が、実際はどうなのか、より深い静まりが必要だと思わされる。

・9/1は完全静思の日。この夏の自分の生き方を、もう一度チューニングし直す日だ。大事に、丁寧に過ごしたいと思わされる。

2015年8月25日火曜日

最近

久しぶりのブログ。
夏は、家にいないことが多く、なかなかパソコンに向かえない。


この夏、一冊の本をじっくり読んでいる。
ティム・ケラーの"The meaning of Marriage"(邦題;結婚の意味)だ。

http://www.amazon.co.jp/%E7%B5%90%E5%A9%9A%E3%81%AE%E6%84%8F%E5%91%B3-%E3%82%8F%E3%81%8B%E3%82%8A%E3%81%82%E3%81%88%E3%81%AA%E3%81%842%E4%BA%BA%E3%81%AE%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AB-%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%A2%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B1%E3%83%A9%E3%83%BC/dp/4264033527/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1440496038&sr=1-1


ここでは、様々な角度から「結婚」のそもそも論がしっかり具体的に扱われている。
興味深いのは、結婚を友情の先に捉えている点。

「友情」という概念をもう一度再構築しなおす必要を感じている。
また内容について詳しくはここで改めて書きたい。


ひとまず明日はまた松原湖。
ゆっくりしっかり。

2015年8月11日火曜日

休暇を終えて

・休暇を終えて、一週間が経った。あっという間だった。しかし、すごく長く感じた。一週間という単位はなかなか面白い。長いけどあっという間。あっという間だけど長い。

・休暇を経て、自分はちょっと変わった気がする。世界の見え方がちょっと変わった。なんにしても、ゆっくり見つめて、あんまり結論を急がないほうがよい、ということを身体が覚えた感じがする。結論大好き人間だった僕としては、ちょっとした変化だ。

・最近大泉洋のエッセイを読んでいる。文体が気持ちいい。話題が恐ろしく個人的だ。でもだから、読んでいて重くないし、メッセージ性がある。僕もこんな文章を書きたいなと思った。

2015年7月23日木曜日

友達とはなにか

・最近考えていること。それは、友達とは何かということ。思えば、中学生の時に一度このテーマにぶち当たって、底なしの悩みにはまり込んだ記憶がある。自分は彼にとって何番目の友達か。そんなランク付けが自分を揺さぶって、不安と猜疑心に心が埋まった。

・改めて、友達とは何だろうか。友情とは何だろうか。それを考えるとき、僕はいつも『僕』が主役になっている。僕にとっていい友達とは。僕を大切にしてくれる友達とは。僕を受け入れてくれる友達とは。僕が何でも話せる友達とは。僕を慕ってくれる友達とは。僕が追い求めている友達は、『友達』の一部分でしかない気がしてきた。

・友達とは何だろうか。それは、人間関係である。しかも、かなり広汎な人間関係を指している。それは僕が君をどう思っているかという世界と、君が僕をどう思っているかという世界とに分割される、と考えられがちだ。しかし、その考え方は、友達という関係を理解するときに妨げになる。ということに最近気付き始めた。

・君にとって僕がどんな存在であり得るか。この問いは、『友情』という事柄の中心を掴んだ問いであるように思う。僕にとって君が、ではなく、君が僕をどう思うか、でもなく、『君にとって、僕が』という問い。その問いを純化させていく営みが、愛するということなのではないだろうか。

・僕は友達が欲しい。なら、僕が友達になればいい。友達はできるものではないし、作るものでもない。なるものである。ならせていただくもの、と言ってもいいかもしれない。自分本位ではなく、相手本位で考える。その道に、イエス様の歩みを見る。いつも私たちに本当のことを教えてくれるのは、イエス様だ。

・隣人を、自分自身のように愛する。この一言が、全てを包んでいる。神と人とに仕える生き方を、今日も問い続けたい。

2015年7月15日水曜日

忘れるな

・今日は、一日中胸がざわついている。安保法制に関する情報が四六時中入ってくる。仕事中も、休憩中も、気になってしまう。予想通り、特別委員会で採決。予想通り、だ。

・明日の必要を考えれば、確かに、この法案は有効に見えるかもしれない。だが、この法案が、一個の出来事として起こっているのではなく、十年以上にわたって脈々と続いてきた一つの流れの中で起こっていることであることを私たちは忘れてはならない。

・私たちは過去を忘れようとする。思えば、安倍総理は「経済」で選挙に勝った。見てみろ。経済はよくなるどころか悪くなる。気づくと論点は安全保障で、こんなにも大胆な、国家としての在り方を本質から変えるようなことを「閣議決定」という形で少しずつ確実にして、ついにやってのけようとしているのだ。

・忘れてはならない。これがあの「経済」で国民の票を集めた彼らの本当にしたかったことだ。このことを忘れてはならない。次の選挙の時まで、次に投票するあの瞬間まで、僕たちはこのリアリティーを忘れてはならない。一時の感情にしてはならない。

・今日の朝日。いつもと変わらず、哀しいくらい美しかった。明日もおんなじ朝が来る。僕らはそう信じて生きている。そう、明日はまるで今日とおんなじであるかのようにみえる。「見える」だけ。そうやって、時代は進んでいく、政治は変わっていく、戦争が始まっていく。愛する人が死んでいく。自分も人を殺す日が来る。そういう想像力、記憶力、僕たちは、持ち続けたいと思うんだ。

2015年7月13日月曜日

夕方に思うこと

・主事を始めて、夕方に出かけることが増えた。今まではあり得なかったことなので、新鮮で、色々新しさを感じることが多い。

・夕方に出かけると、帰宅途中の小学生や、買い物帰りの主婦とすれ違うことが多い。すると、自然と『家庭』について思い巡らすことに導かれる。

・『家庭』について思い巡らすと、往々にして『幸せ』ということについても思い巡らすことになる。家庭に、幸せ観を見る。結婚、夫婦、親子、子育て、学校、仕事、そこから出発して、そこに帰ってくる。家庭は、人生のすべてのテーマの出発点であり、帰着点のような気がする。

・夕方に出かけると、季節を感じる。初夏特有の涼しい風は、いつも夕方に吹いている気がする。懐かしい気持ちになったり、切ない気持ちになったり、そういう繊細な心の動きに、敏感になる。夕焼けに、哀愁を感じる。

・幸せとは何か。大事なテーマだと思う。そして、そこに『造られた私』という被造物としての人間理解を携えて取り組むとき、創造主なる神様の懐に憩う平安を見る。ゆっくり過ぎていく時間の中で、思い巡らす夕方を大切にしたい。

2015年7月10日金曜日

渇き

・御茶ノ水から帰ってくる。立川に着く。電車を降りる。階段を探し、そちらへ向かおうとする。後ろから押してくる人、横から押してくる人がいる。自分もその勢いで前にいる人を押してしまう。睨まれる。僕も後ろを睨まないように見る。かかとを踏まれる。思わず舌打ちをしてしまう。

・人がこんなに密集してモゾモゾ動いているのは、不自然だなぁと思う。どこで働いているかも知らないおじさんや、どんな食べ物が好きかも知らないお兄さん、趣味すら知らないおばあちゃんと、こんなに密着して、押し合っているなんて、やっぱり何かおかしい。第一、すごく疲れる。

・体は限りなく近いのに、心は限りなく遠い。名前も歳も、その人についてのことは何一つ知らない。知っているのは、歪んだ顔だけだ。

・その人にも、笑顔があるはずだ。その人にも、ストーリーがあるはずだ。その人にも、愛する人がいるはずだ。そう思うだけで、ほんのちょっと、ほんの一瞬、心は安らぐ。

・けれどもかかとを踏まれると、そんなものはどこかに吹っ飛んでしまう。相手を、人というより、邪魔なところに置いてあるタンスくらいに思っている自分がいる。蹴飛ばしたくなるのは、人じゃなくて、モノと思っている証拠だ。

・イエス様が満員電車に乗ったら、どうしただろう。きっと、彼らの渇いた心を潤しただろう。いや、その彼らには、僕もしっかり入ってるハズだ。そう思ったら、「神様、僕の心の渇きを潤してください。」と、お祈りしていた。

・「あなたがたは喜びながら救いの泉から水を汲む。」イザヤ12:3

・救いの泉から、水を汲み続けたい。なんだか、とても喉が乾く、夏の夜だ。

2015年7月3日金曜日

聖化についての考察

ウェストミンスター信仰告白14.2
「…救拯的信仰の主な行為は、義認と成果と永遠の命のため、恵みの契約に基づいて、ただキリストのみを認め、受け入れ、寄り頼むことである。」

・救拯的信仰とは、救いを得させる信仰のこと。その行為は、「キリストのみを認め、受け入れ、寄り頼むことである」と、ウェストミンスター信仰告白はいう。このことは非常に重要だ。この文言によって、「救いは完全に神の恵み」ということと「救いにおける人間の行為」という、一見相反する二つの事柄が交じり合うからだ。

・最近の僕のテーマは、「聖化」。聖なるものにされていくとはどういうことなのか、ということだ。聖書では、救われた私たちは「キリストに似せられていく」と約束されている。しかし、実際の生活は変わっていない気がする。この矛盾を、どう捉えればいいのか。

・まず、私たちが立ちたいのは、私たちがキリストによって贖われて、義とされているという地点である。そこを疑わず、信じるところから始まりたい。すると、次の文言が非常に力強くまた現実的な響きを持ち始める。

ウェストミンスター信仰告白13.3
「この戦い(腐敗の残部と聖化の戦い)において、残っている腐敗が、一時、大いに優勢になることもあるが、それでもキリストの聖化のみたまからくる継続的な力の補給によって、再生の側が勝利を得る。それで聖徒たちは、恵みに成長し、神を恐れて聖潔を完成して行く。」

・私たちは、存在、人格、行い、全てにおいて堕落している。そして、それら全てを覆う義の衣として、キリストを着せられている。その事実が、私たちを聖化の道に歩ませてくれる。福音主義は、律法主義の対義語であると僕は思う。イエスキリストの福音によって、贖われたということ。イエスキリストのみを認め、受け入れ、寄り頼むことから始める一歩は必ず祝福され守られると信じる。

2015年7月1日水曜日

新しい月

・一昨日くらいから、足に変な痛みがある。太ももの裏の皮膚がヒリヒリしたり、足の指先がジンジンしたり、チクチクしたり。そんなにしょっちゅうなるものでもないのでちょっと嫌な感じ。

・3つあった口内炎はやっと終わりを迎えてきた。長かった。口内炎て、何でこんなに辛いんだろう。

・今日は雨。雨の匂いは決して嫌いじゃない。砂埃の舞うようなバタバタした日々の中で、雨が降るとちょっと落ち着いて、静まる時が与えられる。これもまた、神様のなせることか、と。

・ただ、低気圧のせいで体調がおかしくなったりはよくするので、それだけは少ししんどい。そんな思いで、新しい月が始まった。

2015年6月30日火曜日

本厚木で

・今日は夕方までOCCで働き、夜は本厚木へ、学生と会いに。学校に入れないため、学校のそばのカフェで一緒に祈る約束をした。「学内活動をしたい」という強い思いが、こうやって実を結んでゆく。

・「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。」ピリピ1:6

・この文脈において、「良い働き」とは、限定的に読めば「献金」を指すという。しかし、パウロが「献金」といわず「良い働き(KJV; Good work)」と言ったのは、私たちのうちに始められる良い働きは、すべて背後に神様の憐れみに満ちた召しがあり、その背後には本当に一方的な恵みによる救いがあるからであろう。献金に限らない、すべての「良い働き」は、主によって始められ、間違いなく完成に向かっているのである。

・今日から始まる本厚木での祈り会。この「良い働き」を、神様が完成させてくださることを堅く信じたい。この祈り会の「完成」とは何かを、じっくり考えながら、朝の中央線に揺られている。

2015年6月29日月曜日

人生を神の目で

・今日からまた新しい1週間。今週の予定はこんな感じです。

月 KGK Open Seminar / OCC
火 OCC / A木看護訪問
水 研修 / 祈り会 / OCC
木 静思の日
金 C央大・T海大訪問
土 合同委員会 / ライブ

・しばらくはなかなか忙しいが、7月末に1週間休暇をとる予定なので、そこまではちょっと頑張りたい。

・昨日の夜、「The Prince of Egypt」を久しぶりに見た。出エジプトの物語のアニメで、モーセの誕生から、エジプトからヘブル人がモーセに率いられて出て行くまでの物語がとても生き生きと描かれている。モーセとラメセス(エジプト王)の葛藤に満ちたやり取りがすごく印象的で、モーセの苦しみや悲しみがよく描かれている作品。サウンドトラックもすごく良くて、おすすめだ。

・作品の中で、「人生を神の目で見つめよう」という言葉があった。目の前にあるひとつひとつの出来事の意味を、神様の目で見つめて歩む。今週もそういう思いで、みことばと祈りによって歩みたい。

2015年6月25日木曜日

議員要請から考えるキリスト者と政治

6/25(木)

・議員要請に行ってきた。議員会館で祈り、議員の部屋まで行き、要請文を渡す。目を見て、声を届ける。そんな営みだ。

・すごく緊張した。一つのハッキリとした意見(安保法制法案の廃案)を「要請」という形でぶつけることに、正直すごく迷いがあったし、逃げたくなる思いがあった。でも、そこは曖昧にはできない。ちゃんとハッキリと言わねばならない。

・何故、ハッキリと言いたくないのか。それは、嫌われるのが怖いからだ。批判されるのが怖いからだ。人に嫌われず、批判されず、みんなに認められたいという思いが僕の心に根深くあるのだ。それは、甘えだし、逃げだ。だって、自分の中で、今の時点での答えは出ているのだから。

・「戦争するための法律ではないですから。」とある秘書の方は言っておられた。確かに、そうとも言えるだろう。でも、大事なのは、その法律の「方向性」であると思う。その法律が、どのベクトルを指し示しているか、という話だ。そう考えると、今回の安保法制法案は、今まで「NO」だった戦場が「YES」になることだと言える。今まで「NO」だった行為が「YES」になることだと言える。

・僕は、キリスト者として、究極的に「全部NO」を求めたいと思う。平和って、そういうことだと思う。「武器があって、兵力があって、それで平和」というのは、あり得ないと思う。この、究極的平和をゴール(終末、完成)に見据えて今の法案ひとつひとつを考える、という視点が私たちには欠かせないと思う。

・「そんなの現実的じゃない」「実際の脅威にどう対応するんだ」「実現しようがない、現実離れしてる」....そういう声に押されそうになるけれど、そこで心折らず、諦めず、究極的平和を語り、目指し続けること。「殺してはならない」「あなたの隣人のものを、欲しがってはならない」という言葉が、十戒にはある。僕はこれが、戦争を禁じていると思うし、究極的平和を目指す上で、完成を目指す上で、忘れてはならないことだと思う。その意味で、「全部NO」を目指している僕にとって、「YES」が確実に増えるような法案は、悪法と言わざるを得ない。

・その法案のベクトルを見極めることが、私たちには求められている。この法案は、神の国を建設するものだろうか、神の都建設を向いたものだろうか。この問いを持ち続けるものでありたいと強く思う。それが、僕の判断基準になる。

・「学生に対して指導的な立場にある主事が、そうやって一つの政治思想を持って言動するのは如何なものか」という問いは、外からも来るし、現実、僕の内側からも常に湧いている。確かに、「法案に反対/賛成するのがキリスト者として正しいんだからそうしなさい。そうしないのは罪だ。」などとは、口が裂けても言えないと思う。この問いを受け、動揺し、揺さぶられる自分がいる。葛藤している自分がいる。

・でも、同時にこう思う。僕は、一つの政治思想を広め、それで学生や友達を統一しようなどとは思っていない。こう考えるべき、という「べき論」で進めるものではないとも思っている。様々な答え、応答があっていいと思っている。大切なのは、その答えを「どのように」出したのかということだと思う。そのときに、法案のベクトルを神の国建設という視点で見直し考え直す経験は、欠かせないと思う。政治は政治、信仰は信仰、と分けられるものではないから。

・みんながこういうから。あの主事がこういってたから。Facebookでこういう雰囲気だから。そういう理由で答えを出すのではなく、本当にその法案が神様の喜ばれる法案なのかをじっくり、信仰の事柄として、問うて問うて問い続けたい。自分の脳みそで精一杯考えて、間違った時は素直に「ごめんなさい」を言いたい。そういう意味で、僕はいつも自分は間違っているかもと思わねばならない。

・でも、行動し続ける。おかしいと思うから、ベクトルが逆を向いていると思うから、神様の国を建てあげる法案ではないと思うから、僕は安保法制法案の廃案を求める。それが、「今の僕」の、信仰の決断だから。

・また、行動するところに体験があり、体験があるところに気づきがある。気づきは人を変える。間違いに敏感になる。だから僕は、丁寧に、行動することを続けたいと思っている。

2015年6月23日火曜日

柏木哲夫講演会

6/23(火)

・色々なことを考え詰めると、時にフッと全てを放り出したくなることがある。頭ではわかっていても仕方ない。湧いてくる感情や、感情すらも超えた「魂」における感覚が、自分を突き動かす。魂は、心や感情の奥にある。そんなことを思わされている。

・そんなことを思うきっかけは、柏木哲夫先生の講演を聞いたこと。日本におけるホスピスの第一人者で、「死」という事柄を、思索し続けているお方だ。

・彼はこう言われた。「人は死んでいく力を持っている。」また、こうも言われた。「死は生の先にあるのではなく、生の裏側にいつもあるのだ。」

・人は死ぬものとして生きている。死ぬとき、人は魂と向き合うことになる。魂の渇き、魂の叫び、魂の納得。人の核の核には、魂が脈打っているということを思い出す講演だった。

・「自分の魂は今、どんな様相をしているだろうか。」国分寺駅に溢れる人ごみに揉まれながら、言葉になり得ない疲れを感じつつ、そんな問いを反芻し続けている。



2015年6月20日土曜日

今朝の出来事

6/20(土)

・今日の朝の電車の中での出来事。ドア脇に立っていたら、あるおばさんが乗ってくるなり「あんたみたいにずっと乗ってる人がそういうとこに立ってるのは本当に非常識なのよ、わかる?」とまくし立ててくる。思わず「…はあ?」と言って思いっきりにらみつけてしまう。なんだこいつ、と。「あんたみたいにそうやって長い間乗る人がそこを占領するから私みたいな年寄りは大変な思いするわけ。わかる?文化と世代の違いだからわからないかしら。本当に非常識なことよ。ほんと迷惑だし、ね。あんた。」とまくし立て続けるおばさん。「…すんませんでした。どうぞ。」必死で怒りを抑え、でも抑えきれず、これでもかとにらみつけながら、そのスペースを譲る。「あら、譲ってくれるの?ありがと、私こう見えても80のくそばばあですから!!」となぜか語気を荒げるおばさん。その一言に、僕も限界。「あのね、おばさん。そういう言い方はないんじゃないですか。そういう言い方されるとこっちもすげえ腹が立つんですけど。」「あらそ、腹が立つのはそっちの勝手だけど、まあこの喋り方はもう育ちの問題だから、もし不愉快にさせたのならそこは謝るわ、ごめんなさいね、でも仕方ないことだしそれは文化と世代の違いだから。」と、一ミリも謝る気のないわけのわからない謝罪。しまいには僕は一歩も歩いてないのに「歩きスマホ」について説教をされる。このころから僕は「このくそばばあ」と言いたくなる気持ちを必死で抑えていたが、次の駅で止まるやいなや、もう我慢できないと思い、車両を変えた。「あら、こんなすぐ下りるのね、だったらよかったわ」というわけのわからない一言が、背中に届いたのを振り切って。

・吉祥寺の駅の階段を下りながら、僕はそのおばさんへの怒りをぶつぶつ口汚く吐き出していた。でも、一向に気持ちはすっきりしない。それどころか、どんどんもやもやしていく。そして、気付く。「僕は、こんな程度のとばっちりに対して、ここまで腹を立て、どうにかして相手を論破し、自分が正しいのだから一言嫌味をいうくらいの権利はある、くらいに考えている。でもイエスさまはどうだ。何も罪を犯していないのに、唾をかけられ、罵られ、痛めつけられ、辱められ、死刑にされたのに、何一つ言い返さなかった。彼は、『父よ、彼らをお赦しください』と言った。なんて、なんて僕は心が貧しいのだろうか。イエスさまとは似ても似つかないものなんだろうか。僕自身、こんなに赦された存在なのに、あのおばさんの小さな小さなとばっちりさえも赦せないとは…。」

・昨日、「汝の敵を愛せ」という聖書の言葉に感動したばかりだった。突き動かされ、頭の中に、ずっとその言葉があったはずだった。なのに、なのに。自分は愚かで浅はかで、なんと貧しいことか。一ミリも、汝の敵など愛せないのだ。ドア脇にいてとばっちりを喰らうくらいで、おばさんを「敵」と思い、怒りと論破したい衝動に駆られて睨みつけてしまった。一人になってから、呪いの言葉を吐き続けてしまった。これが、これが僕だ。「汝の敵を愛せ」という言葉に感動しながら、まったく敵を愛すことなどできない。Facebookではかっこいいことを書き綴るけど、結局そういうやつなのだ。

・そう思ったら、なんか、こういうエピソードもFacebookに書こうと思った。かっこいい自分を作り出すためにFacebookを使うのは簡単だが、結局なにもかっこよくないわけで。誰も赦せない愚かで空っぽなものなわけで。そういう自分にぶち当たった、今朝の電車でした。

2015年6月15日月曜日

働きつづけるために

6/15(月)

・6月の2週目は怒涛の勢いだった。自分が何のために働いているのか、わからなくなる夜があった。1日のスケジュールを思い、気が重くなった朝があった。『こんなことしてて、意味あるのかな。』そんな問いが、浮かんでくる朝は、本当に辛かった。そしてそんな時、人から『よく頑張ってるね。ありがとう。』と言われなければ働き続けられない、自分の動機の脆弱さを味わうのだった。『何のために働いているのか。』その問いは、そんな心からふつふつと湧き上がってくる。

・KGKの働きにおいて、最も気をつけなければならない誘惑の一つは、自分の仕事がうまくいっているかどうかを『充実感』や『充足感』で測ろうとする、という誘惑だろう。充実感がないとき、充足感がないとき、何によって働くか、僕は本当に問われる。

・大事なのは、休息だ。そして、休息の時を『良く』過ごすことだ。リラックスするために、欲を制する必要があることが、僕にはしばしばある。例えば、夜更かししてYouTubeを見ることをやめ、早く寝ること。朝、寝たままゴロゴロしていたい気持ちを抑え、起きてからゆったりすること。すぐバスやエスカレーターを使おうとするのをやめ、隣駅まで緑道を歩くこと。くだらないネット記事を読むのをやめて、好きな小説を読むこと。そして、みことばを読み、ゆっくり祈ること。そういう休息の過ごし方を、選ぶのだ。

・体が疲れた5月から、心が疲れた6月へ。自分も有限な存在だとようやく気付く。背伸びせず、等身大で。また、立ち返って生きる佐藤勇でありたい。

2015年6月12日金曜日

S都大訪問/灰谷文学との出会い

6/11(木)

・この日はS都大を訪問した。学生と聖書を読む中で、本当にそのみことばの深みに引き込まれていくことがある。そういうとき、聖研は本当に面白い。この経験を!いろんなところで重ねたい。

・ひょんなことから、灰谷健次郎を読みあさっている。結婚や家庭、子育てというテーマは僕にとって本当に大事にしたい、学び続けたいトピックなのだが、この灰谷文学に流れる子ども観、人間観、いのち観に揺さぶられる。これぞ、生きるという営み!福音を携え、キリストのものとして、この生きるという営みを重ねられたらと思う。ぜひ、オススメしたい。またブックレビューでも書こうかと、考え中である。

2015年6月8日月曜日

リセット

6/8(木)

・一週間近くお休みしてしまった。が、まあブログはこのぐらい気軽に、やっていければよいかと思っている。この6月頭はわりと疲労感があった。特に金曜日に学校訪問ダブルヘッダーに初トライしてみたが、なかなか体力勝負だということがわかった。でも、学生時代は、聖研を一日二回も味わうことなどなかったので、そういう意味でとても楽しかったし、新鮮な経験だった。

・6月もわりかし忙しめ。さまざまな「せねばならないこと」があるなか、「するべきこと」をしっかりと見据えつつ、地に足つけて、聖書をよく読みよく祈る歩みを続けたいと思う。

2015年6月2日火曜日

T摩美大訪問

6/1(月)

・この日は初のT摩美大訪問。美大だからというわけではないんだろうが、キャンパスが綺麗で、歩いていて気持ちいい。多摩地域の学校のキャンパスは、どこも広くて緑が多いので、気持ちいいなぁと思う。聖研では、2人の学生と創世記のアブラムの召命のところから学ぶ。停滞した歩みから、一歩前に踏み出すこと。そのチャレンジを受ける。初めて会う学生とも、聖書を読む中で仲良くなれるのは本当に恵み。感謝なことだった。

・どうでもいいことだが、美大と言われると、全部の建物がいやにかっこよく見えてきたりする。笑


2015年6月1日月曜日

信徒学校/家族で聖書

5/31(日)

・この日は教団のイベント『信徒学校』があり。引退された牧師先生3人から、牧会の喜びと、またそれぞれの証を聞く。40年も50年も、牧会生活をされてきた先生方から出てくる言葉は本当に重く、また説得力がある。『信徒の交わり』を本気で考える牧師先生の姿に胸打たれた。

・夜は、家族でみことばを読んで分かち合いをするということを初めてみた。ひとまず使徒の働き1:1-11まで。『ルカの福音書があって、この使徒の働きがある』という連続性から、福音なき働きはなく、また働きが生まれない福音もない、ということを強く思わされる。そういえば、今まで両親の分かち合いを聞くことがあまりなかったなぁと思い、これからも続けたいと思わされた。

2015年5月30日土曜日

学内活動セミナー

5/29-30(金-土)

・学内活動セミナー。通称学セミ。それは、年二回ある関東地区KGKの1泊キャンプ。春のこの時期の学セミは、新入生が初めて来る泊まりイベント。たった一泊だけど、濃い、内容が詰まったキャンプ。

・今回のテーマは「福音に生きる―交わり―」ということで、「福音」という言葉を握りながら、交わりということを考えた。メッセージはO川主事。コロサイ1章1~8節が開かれ、「交わりは、福音をあらわす器」ということが語られた。主事を初めてまだ2ヶ月だが、色々な学校を回る中で、そこにあるキリスト者の交わりが、本当にイエスキリストの福音をあらわす器なのだということを実感する。そしてそれは祝福の泉であることを思う。「ここまで福音が届きましたよ!」という大事なしるし、証として、交わりはあり、そこからさらに奥へ、遠くへと広がっていく。福音にはそれ自体に力がある。繁茂していく植物のような、脈打つ生命がある。そのことを味わうことができた、素晴らしいメッセージだった。

・2日目は聖書研究。ピリピ2章1~11節を開き、交わりと福音の関係を考える。自分の罪をしっかり噛みしめないと、福音の響きが心で鳴り響かない。根拠は自分ではなく、神様にある。それをしっかりと噛みしめるためにも、まず自分の罪をすこしでもわかるように、祈り続けたいと思わされた。

2015年5月29日金曜日

主事会/多摩ブロッコリー役員会

5/27(水)

・この日は、月に一回の主事会の日。午前の学生訓練計画のシェアから始まり、午後は各委員会報告や、今後のイベントについて、それぞれの必要など。話し合うべきことは多く、忙しく話し合う。しかし、その一つ一つが、学生に届くもの。学生は、僕らにとって生徒やお客さんでは決してない。一人一人が、同労者なのだ。その思いを新たにさせてくれる、そんな月一回の主事会だった。

5/28(木)

・この日は夜に多摩ブロッコリーの役員会。サイゼリヤではなくバーミヤンだというだけで、なんだかテンションが上がる。役員同士の交わりは、どんどん深まっていて、交わりの中で人が成長していくことを本当に感じる時間。理想を持つのと同時に、希望を持って今を見つめることもまた尊いことだと思わされる。頼もしいメンバーだ。6/11の祈祷会が楽しみになる。

2015年5月27日水曜日

S修大訪問/韓国料理/小田急線


5/26(火)

・この日は昼からS修大聖研へ。『一番仲良いやつ来るんすよ』と、ノンクリスチャンのゼミ仲間を紹介してくれたメンバー。彼の救いを願って、祈る。聖研は『心配してはならない』というところ。就活や結婚、お金や課題など、様々な心配を分かち合い、『神の国を求める』生き方とは何かを問う。

・聖研後は、一人のメンバーが、彼のお母さんがやっている韓国料理屋に連れて行ってくれる。着くと、彼のご両親は、僕の教会の牧師とすごく親しい方々だったことが判明。『息子はKGKに行って変わったんですよ』と嬉しそうに語ってくださるお母さんの顔が印象的だった。美味しすぎる韓国料理をたくさん振舞って下さった。

・そのあとは、小田急線ブロック祈祷会へ。証の奉仕をする。人数が多く、若々しい雰囲気が印象的。みんな元気で、楽しそうだ。そして、ちょっと年をとったことを感じる。証の時間も守られた。たくさんの祈りに感謝である。学生と過ごした、いい一日だった。

2015年5月25日月曜日

焼肉/神の家族

5/23-24(土、日)

・土曜の午前中は、全国協議委員会のOBOG会に行く。ちゃんとお話しするのは初めての先輩がいたが、本当に楽しく過ごすことができた。メニューは焼肉(最高)。家族という交わり、特に夫婦という交わりの素晴らしさを垣間見る。その体験は、その日の夜のメッセージにもつながっていった気がする。

・その後五反野に移動し、教団での初めてのみことばの奉仕。エペソから『神の家族』という言葉を軸に、その喜びと召しを確認する。青年一泊キャンプだったが、参加者は30人越え。明らかに僕は緊張していた。

・今回最も強く感じたことは、研修でも言われたことだった。それは、『説教とは、説教者と聴衆の共同作業である。』ということ。神の言葉として聴いた言葉を、神の言葉として語る説教者。それを神の言葉として聴く聴衆。この双方がいて初めて、説教は説教となる。僕の説教を、神の言葉として真剣に聞いてくれる兄弟姉妹。本当に本当に励ましだったし、それ自体が、神の家族という体験となった。

2015年5月23日土曜日

T海大学訪問

5/22(金)

・この日はT海大学訪問。遠いという噂ばかり聞いていて、かなり覚悟していたが、新宿から乗り換えなし1時間で着き、なんだか近いなぁと思うほど。確かに、自宅からは1時間半ほどかかるが、学生はみな通っているわけで、遠いとは言いつつも、僕もたくさん行きたいし行こうと思った。

・リーダーの学生と分かち合いをし、祈る。彼は年上なのでなんだか変な感じ。でも、彼がいることに僕はすごく安心するし、彼がいることは励ましに行こうと思う一つの大きな理由だ。

・教室に行くと、2人の男子学生とドイツ人の顧問の先生がいる。そこで、自己紹介をし、日程を決め、祈り合う。『じゃあ、そこバイト休みにしますよ。』と言ってくれる学生。ここからまた始まるのだ、という気持ちになって、喜びが湧いてきた。

・夕飯も共にする。めっちゃ美味しい。凄まじい分量。お腹も心もいっぱいになる訪問でした。

2015年5月22日金曜日

誕生日/研修/みことばの深み

5/20(水)

・誕生日でした!研修と遅番の誕生日だったが、たくさんの人が祝ってくれた。この地に生を受けていることも当たり前ではないと思う。『生きよ。』と言ってくださる神様がいて、『わたしはあなたの神である。』と言って個人的、人格的に関わりを持ってくださる神様がいるから、生きることには意味がある。生きる意味を問うことを、やめないでいたいと思う今日此の頃。本当に幸せな誕生日だった。

5/21(木)

・3日続いた聖書学の研修が終わり。かなりヘビーだったが、I淵主事の知識と言葉がぎゅーっと凝縮された時間。全身で受け止めた。新約の世界と旧約の世界がすごく立体的に見えてきて、本当にエキサイティングだった。冷たい無機質な方ではなく、暖かく人格的なお方である神様に気付かされた。

・23日にある、教団キャンプのメッセージを整える。言葉が浅い。質感がない。流れが不明瞭で、聖書の言葉が心に残らない。もっともっと、聖書と向き合わなきゃならない。もっとみことばの深みにこぎだしたい。わかりたい。きっと分かりきれない。でも、それでもいい。そんな思いが、疼く。もうすこし、向き合います。







2015年5月19日火曜日

母校へ/協力者の会

5/15(金)

・母校ICUで初めての奉仕。Worship Nightという、毎週金曜日に賛美集会をしている集まりで『賛美とは何か』という学び。コロサイ3:16から、みことばに立って、交わりで、神様に向かって、賛美することの素晴らしさを語る。学生時代、クリスチャンとして本当に養われた場所。ここに、まがりなりにもスピーカーとしてくるようになったんだと思うと、嬉しさと切なさが入り混じった気持ちになる。徹夜で分かち合い、いい時間だった。

5/18(月)

・この日は協力者の会。普段からKGKの働きを覚え、祈り、考え、学生と関わって支えてくださる方々。大嶋主事の発題から、主事の学生訓練のあり方を歴史的に見直す。形や方法は変われど、いつだって主事は本気だ。そして、学生も本当に本気だ。やる気が漲る会だった。

2015年5月14日木曜日

初メッセージ

5/14(木)

・今日はC大訪問。家からモノレール一本で行けるし、C大はアクセスが良い。今日は学生に会い、話し、色々考えた。昼食に食べたカレーがおいしかった。

・夜は多摩ブロッコリー祈祷会。多摩地域の大学の学生が集まって、賛美し、祈り、御言葉を聞く。主事になって初めて、メッセージの奉仕だった。多摩ブロッコリーの今年のテーマは「律法と福音のコントラスト」というもの。今日はそのテーマの意味を一緒に考えるという意味で、ガラテヤ2:16から、私たちは何によって救われるのかということを問い直した。初めてのメッセージですごく緊張したが、こうして、御言葉の奉仕が無事終わって本当に感謝だった。神様がこのメッセージを用いてくださることを祈る。何より、御言葉がみんなの心に残ることを祈る。

2015年5月13日水曜日

D大聖研

5/12(火)

・この日はD大の聖研に。ヤコブ3章を一緒に読む。舌で失敗するよね、考えずに喋っちゃうよね、上からの知恵ってなんだろね、そんなことを、1時間半、みことばから考える。私たちはみな失敗の多いものです。という聖書の言葉に、そうだよなぁと思わされる。設問が少ない分、じっくり、それぞれの言葉に耳を傾ける聖研。それぞれの性格やくせなどを分かち合いながら、最後は具体的にひとつ決断をして、祈り合い。僕は『見栄を張らない』という決意をしました。じんわりと心に沁みこむ、あったかい交わりでした。D大聖研、ホットというより、ウォームです。

2015年5月9日土曜日

礼拝としての地区新歓

5/9(土)

・今日は関東地区の新入生歓迎会だった。正確な数字はわからないが、250名を超す参加者があり。去年も思ったことだが、あれだけの大学生が集まり、一つの御言葉を聞いて各大学に送り出されるということの意味深さを思わされる。様々な学生に会い、彼らと祈り、近況を分かち合う。そして、初めて見る顔ぶれを見つけ、緊張しながら話しかけ、学校を聞き、来てくれたことを喜ぶ。そして、共に遣わされていることを確認する。前々日の説教演習で聞いたことばの一つ一つがよみがえる、よみがえる。新入生歓迎会、侮るなかれ。これは新入生を歓迎すると共に、関東地区全体で、始まるぞ、というスイッチが入る会。新入生、侮るなかれ。彼らはすでに、学校に派遣されている大事なキリストの使節。長崎で聞いた、天正の遣欧使節という、ヨーロッパに送られ、帰ってきて殉教の道をたどったキリスト者の少年たちのことを思う。そう、僕らはキリストの遣学使節なのだ。遣わされているということを確認し、共に一つの御言葉に聞き、共に祈り、学校に送り出されていく。Send Me!と賛美して、送り出されていく。これぞ、KGKだ。KGKの真髄が、新入生歓迎会には詰まっている。そして、それは礼拝の本質なのだ。祝祷によって、派遣されていく。あの交わりから、派遣されていくのだ。明日は新しい週のはじめの日。何よりもまず神様の御前に出て、祈り、賛美し、同じ御言葉を聞いて、遣わされる。あの教会から、あの学校へ、職場へ、友人のもとへ、家族のもとへ、あの人のもとへ。うーん。わくわくする。礼拝が見える、そんな地区新歓でした。

M星大・C大訪問/主事会セミナー

5/8(金)

・まず、M星大訪問。学内にコンタクトを僕が取れている学生がおらず、でもこの大学で祈りの交わりを始めたいと強く思わされている大学。15分ほど、学内のベンチで祈る。たくさんの学生がいるのを見ながら、必ずここにも僕が知らないだけでクリスチャン学生がいると確信する。そして、Facebookで募ってみる。すると、何人もの情報が入ってくる。しかも、昨晩この大学の新入生からC大の学生にコンタクトがあったことが判明。僕が近視眼的に物事を考えているのに対し、神様はどんなに大きな視点で物事を見ておられるのか、畏れと期待に胸がいっぱいになった。

・M星大訪問の足で、そのままC大へ。C大では聖書研究会に参加。新入生のO君も参加していて、すごくいい雰囲気。S君のリードも、みんなが話せるように話題と論点をまとめながらのなかなかなもの。気遣ってお菓子をたくさん買ってきてくれたFちゃんの存在も大きく。久しぶりに、学生として聖研に参加したような気分だった。サマリアの女のところから、この女の渇きはなんだったのか、ということをじっくりみんなで考える。聖書を読む楽しさ、深みを味わった。

・そのあとはOCCで仕事をし、夜は主事会セミナー。前回の学びがエキサイティングだったので、この一か月待ちに待っていた。今回はサルでもわかるヘブライ語ということで、ヘブライ語の読みを中心に学んだ。本当に素晴らしい学びだった。特に、創世記1:1をヘブライ語で読めた感動はなかなか忘れられない。創世記1:1の「神」という言葉が複数形であるのに対し、「創造した」という動詞が単数形であるということから、三位一体の神様が浮かび上がってきたり、「創造した」という動詞が神様にのみ用いられる言葉であるということから、創造者と被造物の圧倒的な違いを痛感し、被造物である私たちは神になりえないことを感じたり。聖書の原文から、言語から迫り立ってくる神様の性質、福音の力を体感した2時間だった。本当に素晴らしい学びだった。

・今日5/9は関東地区の新入生歓迎会。初めてKGKに来る人が一番多いイベント。「もてなす」ものとして、初めて会う一人一人を愛する一日になりますように。行ってきます。

2015年5月7日木曜日

GW振り返り/説教演習

5/7(木)

・投稿が完全に滞ってしまったが、まあGWということで。佐藤のGWはざっと以下の通り。1日には完全静思の時を持ち(すごくいいカフェを見つけた)、家族で食事へ。2日はメンタリングとバンド活動。3日は教会で、4日は日比谷公会堂でゴスペルコンサート。マーサ・ムニッジという大物シンガーが来て、大きなフェローシップになった。北海道から九州まで、日本各地のゴスペルクワイアが参加し、大迫力だった。そして、5日はOCCで仕事のあと、大学の友人とスタジオで遊び、焼き肉へ。そして6日は奏楽練習。あと、母が体調を崩しているので夕飯も作ることに。母の存在の大きさを感じる今日この頃だ。

・そんなこんなで、それなりにプライベートの時間もあったGWだったが、その裏では教団の青年全国集会が開かれていて、それに参加できなかったのは本当に残念だった。こんな感じで、それなりにこまごまと用事がかなり前から入っていたので、参加できなかったのだが、やはり、教団の青年たちとの交わりは欠かせないし、今回いけなかったのはとても悔しい。テーマソングを作ったのだが、その録音がプログラムスタッフの方から送られてきて、それを家で聞きながら、思わず泣きそうになった。

・また、今日5/7は説教演習の日だった。「派遣意識」というテーマで、説教を用意し、それを発表し、批評していただくというもの。僕は使徒の働き1:3-14から、イエス様の昇天と弟子たちの派遣ということで、「わたしの証人になります」という題で説教を作った。これがGWのそれぞれの予定の合間にびっちり隙間を埋めるように入っていたので、休んだ感じがあまりしない。

・その説教演習は、本当によい学びのときだった。多くの主事や先生方がおられる中で、初めて説教として、御言葉を語った。フィードバックは決して生優しいものではなかったけれども、愛のこもった人格的なものだった。一つ気付いたことは、説教では、僕の神様理解や福音理解、聖書理解がもろに出るということ。そして僕の姿がさらけ出されて、弱さや欠点が浮き彫りになるということだ。そういう意味で、説教はすごく恐ろしい営みだ。自分の弱さが露呈する、神様の前でただただ自分の欠けが浮き彫りになる行為だから。でも、その僕を愛をもって受け止め、成長する歩みをするために、ともに祈り語ってくださる「同労者」の方々がいることは、本当に励ましだった。人格的な、よい学びのときだった。

2015年5月1日金曜日

あさんぽ/読書会/多摩ブロッコリー役員会

4月29日(水)

・祝日。なんだか久しぶりな気がする。午前OFFからのOCCで夜まで仕事。午前は朝ゆっくり河川敷を散歩し、聖書を読む。この朝散歩はなかなかいい。さわやかだし、体が起きる。問題は、夜眠くなるのが早いこと。でも、それもまたいいことなのかもしれない。少しずつ習慣化していきたい。

・この日は一気にメッセージを一本書き上げた。どうしても長くなってしまう。けれど、生まれて初めて、何時間もかけて聖書を読み、御言葉と向き合い、祈って書いた説教だ。これからこの言葉がどんなに不十分で、足りなくて、またプライドと罪にまみれているのかを知っていくのだろうけれど、それでも、神様から受けた恵みをこうして言葉にして、語ることが許されているということの凄味を味わっている。このメッセージは14日に多摩ブロッコリーでするもの。これを後2週間で少しずつ整えていきたい。

・夜は親友と読書会。上沼昌雄「闇を住処とする私、やみを隠れ家とする神」を読む。言葉にならない感情を、言葉で片付けようとしている自分に気付く。言葉になる手前に渦巻く複雑でぬるぬるした気持ち悪い感情があることを互いに認める。そして、それをそのままにすることを共に選ぶ。お互い罪人で、どうしようもない存在だってことをわかりながら、どこかでそれを必死で否定している自分がいる。それは見苦しいことだけど、それを見苦しく見せない技もどこかで得ているお互いだからこそ、一枚、また一枚と裸の自分を覆っているいちぢくの葉をはがしていく練習をする。裸の存在は怖い。けれども、そこに神様が触れるとき、本当に癒される。その体験を、少しずつしていきたいと思わされた。


4月30日(木)

・朝からOCCで仕事。この日は委員会に出たりすることもあり、あっという間に仕事の時間が終わった。ひとつひとつの仕事がすごく意義深く、楽しく思える。

・夜は多摩ブロッコリーの役員会。様々なメンツ、豊かな個性。でも、彼らはひとりひとり本当に「いい」。キリストの体として、互いに仕えることができること、本当にうれしい。まずは5月の新入生歓迎会、そしてブロック祈祷会。丁寧に準備を重ねよう。

2015年4月29日水曜日

久しぶりの/ポタージュ

4/28(火)

・久しぶりの新主事研修。関東地区学生会の組織などを学ぶ。そして、信仰基準について学ぶ。非常に深い学び。長崎で得てきた様々な知見の広がりが、こういうところで唸る。今までの自分だったら向きになって否定していたようなものを、一度受け止め、ストンと落とし込むことができるようになった。これは大きな変化だ。

・夜は同期の友達と中野の担担麺を食べに。めちゃくちゃうまかった。つけ麺スタイルだったが、申し分ない。ポタージュっぽいつけ汁がたまらなかった。なんで麺類ってこんなにおいしいのだろう。

・その彼と、その後はマックでゆっくりいろいろ語る。卒論のことや、大学時代の学びのこと、恋愛のこと、人間関係のこと。たくさんのことを、ありのままで、話し合い、最後に祈る。こういう素朴な交わりが、数えきれないほどあったけれど、その一つ一つが今の僕を作っているんだと痛感する。本当にいい時間だった。

2015年4月27日月曜日

キボコク/人間関係/佐藤主事、初九州シリーズ①

4/27(月)

・今日は「希望を告白する朝」、称してキボコク。朝早く、国会前に行き、この国のこと、為政者のこと、政治に携わっているキリスト者のこと、そして世界の痛み―今日はネパールの地震のこと―を祈った。男三人、小さな集まり。でも、すごく祈りが積まれていることを思う。また来月も祈る。

・そのあとは、一人の学生と「人間関係」ということを一緒に考える。すごくいい時間だった。こうやって学生と一対一で、互いに刺激し合いながら学びと言葉を深めていくことができるのは、主事という働きの醍醐味だろう。僕が教えるのではなく、そのやり取りの中でお互いに気付いていくという、インタラクティブな学びの在り方が、なんたってエキサイティングだ。

・その後、ちょっと空いた時間で一時間ほど静まり、説教の備え。午後からは、OCCで仕事。久しぶりの仕事で、楽しかった。色々な方が見える職場なので、すごく面白い。学生にも、ぜひひょっこり顔を出してほしい。お茶の水クリスチャンセンター、3階事務所である。

・7時から、とある読書会的な会合に参加させていただく。尊敬する先生方が、本気で、本音で、一つのテーマを話し、練り上げていく姿。それだけでもすごく迫力があった。このことについては、ブログには詳しくかけないのが非常に残念だが、素晴らしい時間だった。

***
『佐藤主事、初九州!神様のでかさを体験シリーズ①』
・長崎では、Duke神学校が主催している「北東アジア和解のためのクリスチャンフォーラム」というものに参加していた。これは、日本・中国・香港・韓国・アメリカから、神学校の教授や校長・牧師・NPOやNGO、芸術家など計60名ほどが集まり、北東アジアにある痛みの歴史を直視し、そこから今どう歩みだしていくかということを考えるフォーラムだった。

・このフォーラムの最大の恵みは、それが政治的な議論から始まらなかったこと。「福音の中心は和解である」という理解をもって、福音理解の中心に和解を据え、私たちはイエスキリストに救われ、それに似せられていくという歩みをしていくときに、必ず和解という道を通らされる、ということから考え始めていたことが、このフォーラムのすごさだろう。偉そうに政治の話をするのではなく、参加者一人一人が、(普段は強く意識させられ、背負っているだろう)肩書をおろし、一人の人間として、それぞれ向き合い、自分の痛みの歴史を分かち合い、仲良くなり、和解していった。このような本当にローカルな営みだったからこそ、このフォーラムは素晴らしかったのだろうと思う。

・すさまじい大物たちのなかで、最年少、働き初めてまだ2週間という僕は、あまりに場違いで、弱弱しかった。だからこそ、先に書いたようなフォーラムの位置づけは、僕にとってあまりにおいしい話だったし、うれしいことだった。僕と一人の人間として関わってくれる各地のBig Nameたち。本当にかけがえのない経験をしたと思う。

2015年4月26日日曜日

無事帰ってきました!

4/26(日)

・長崎から帰ってきました!お祈り感謝します。すごい一週間でした。共有したいことたくさんです。今日は疲れていて眠いので、また明日以降、少しずつに分けてフォーラムのことから投稿していきたいと思います。ということで、明日から『佐藤主事、初九州!神様のでかさを体験シリーズ』、乞うご期待!

2015年4月19日日曜日

小田急線ブロック役員会/支える会/激辛カレー

4/18(土)

・バタバタした日だった。昼過ぎまで小田急線ブロック役員会。ミーティング前にはリーダーのMと一緒に分かち合うときを持つ。こうして個人的な関係を築き共に語らうことができるのは本当に恵みだ。

・昼過ぎから場所をOCCに移動、ニュースレターの作成と発送を、支える会幹事の仲間2人と一緒に行った。久しぶりに家族・主事・学生以外の仲間と会い、なんだかほっとする。主事として歩み始めて、どこにいても「主事」という肩書を背負っているような気がしていた。その中で、支える会の交わりは、本当に僕の重く感じているものを下ろさせ、僕の話を聞き、祈り、送り出してくれる。会話の中で、関わりの中で、僕を等身大にしてくれる。背伸びしなくていいんだと、元の姿を思い出させてくれる。交わり自体が僕を支えてくれていることを感じた。互いのために祈ることができたのも幸いだった。

・発送作業も無事終わり、3人で夕飯へ。カレーを食べに行ったのだが、それがすさまじい辛さで、全員汗をかきながら奮闘するはめに。ギャーギャー騒ぎながら食べるカレーも楽しかった。


祖父母宅へ/続く研修

4/16(木)

・この日は午前中に祖父母の家に行った。なに、車で30分ほどの近距離に住んでいるので、訪問はそんなにたいそうなことではないのだが、やはりわざわざ会いに行くことが最近忙しい中で減っているので、そういう意味で、意識して会いに行った。祖父母は僕に会うとすごく喜んでくれる。そして、僕の主事としての働きを応援してくれている。わざわざいばらの道を選んで…と心配そうな目で僕を見るおじいちゃんに、この道こそが素晴らしい道なんだよと語る。

・午後から新主事研修に合流。本当に情報力が多く、なかなか受け止めきれていないのが現状。でも、どれも本当に大事なことだし、主事として生きるときに、すごく大きなもの。まだなかなか言葉にはなっていないけれど、少しずつ、ちゃんと言葉にしていきたい。

・この夜は都内某所の教会に宿泊。関西から来たN主事、東海のY主事を交えて、新主事と夜遅くまで語らう。それぞれの人間性がいったいどのようなものなのか、互いに分析しながら、それぞれの個性を見つけ、言葉にし、受け止めてゆく。本当にパーソナルな関わりがそこにあった。すごく恵みの時だった。


4/17(金)

・翌日も引き続き研修の日。委員会形成と、学校訪問論。委員会形成に関しては、昨日の夜の交わりが聞いていて、本当にパーソナルな深い交わりの中で、どのように委員会・役員会を形成していくのかということを考えることができた。Os主事の学校訪問論は、パッションそのもの。学校を訪問し、祈るということにいのちをかけるその姿が衝撃的だった。「学生が一人もいない学内に行って祈る」という話を聞いたとき、本当に主事という働きが祈りの仕事であることを思った。主事という働きを祈りの働きとする、その一歩目が学校訪問にあるのではないだろうか。

・夜は体調が崩れ、早く寝た。この時期は鼻が壊れたようになる。止まらないくしゃみ。鼻水。アレルギー、怖い。

2015年4月16日木曜日

大惨事/大讃美

4/15(水)

・今日の朝は本当に大惨事だった。新主事の研修が9:00から予定されていたのだが、僕は集合時間を一時間勘違いして起きたことに気付き、大慌てで家を出た。朝ごはんをすっ飛ばして頑張ったので、15分遅れくらいでどうにかなりそうだ、ということで謝罪メールを入れ、御茶ノ水に向かった。そして、KGK事務所について、いつも研修に使っている部屋が閉じていることに気付き、「あれ、変だな」と思いながら事務所に入ると…そこには研修のケの字もなかった。そう、僕は時間のみならず、場所まで勘違いしていたのであった。2分ほど意気消沈し、事務局主事のA主事とT主事に励まされ、再出発。結局1時間10分遅れで研修に参加した。本当に申し訳なかった。こういう大失態は、もう二度としたくない。電車があんなに遅く感じたのは、初めてだ。

・そんなこんなでバタバタしていたが、午後は母校のイースター礼拝でゴスペルを歌いに行く。久しぶりの先生方にもお会いして、「ブログ読んでるよ」なんて言われたりして、ちょっと恥ずかしかったりした。大きな声で賛美して、本当に良い時だった。どんなに疲れていても、どんなに大惨事のあとでも、賛美すると心が感謝に向かうから不思議だ。大好きな賛美の歌詞に、「賛美は力/賛美が力」という歌詞がある。ふむ、「賛美が力」なのだ。この助詞の変化から迫ってくる「賛美=力」感、すさまじい。歌詞を宣言し、告白するのだから、感謝の歌を歌うこと、主は素晴らしいと賛美することが私たちの力になることは、ある意味当然のことかもしれない。

2015年4月15日水曜日

美味しいパン/幸福論/同労者/スルメ

4/14(火)

・今日は午前中は保険や年金関係の手続きに走る。思ったより早く色々終わったので、前から気になっていたカフェでご飯。パンが美味い。こうやって食事とかをモチベーションの一つにするのも、また楽しく働くコツかもしれない。やる気が出た。

・五木寛之の「新・幸福論」を購入。現代の幸福観を「幸福と不幸のあいだの、空白地帯のようなところにふわふわと漂っているのではないか」と見る。非常に示唆に富んだ、興味深い本。現代の幸福観を知ることは、とても重要なことだなと思う。特に青少年がどんな幸福観を持っているのか。興味がある。取り組みたいトピックの一つになりそうだ。

・午後は、まずOg主事との面談。スタバでホワイトモカを飲みつつ、ここまでの働きを振り返り、これからの働きのことを話す。主事になって、今までに増してOg主事のことを本当に魅力的だと思うようになった。僕の賜物を見ようと努力し、それを最大限引き出そうと努力してくださる姿。本当に素晴らしい上司に恵まれたなと心から思う。「同業者ではなく同労者として」精一杯働きたい。燃やされる2時間だった。

・そして夜は小田急線ブロック祈祷会。20人以上が集う。新入生も7名。他のブロックからの応援もあり、すごくいい雰囲気だった。新入生を爆発的に盛り上げて歓迎するでもなく、かといって放置もせず、ヌルッとフォローしていくあの感じ。まさにKGKのフォローアップ。気付いたら仲良くなってた…みたいなことがよく起こる、特有のフォロースタイルだ。歓迎されているという実感がない分最初は物足りなさもあるかもしれないが、一回来た時点でもう「ウチ」の人となり、「家族」となる。そういう気兼ねなく関わり続けられる交わりのあり方が、KGKには染み付いている。物足りなさを感じながらも、ぜひ関わり続けてほしい。ある主事は「KGKはスルメみたいなもの。噛めば噛むほど味が出る。」と言った。最初は「こんな味か…」と、薄味に感じても、物足りなく感じても、噛み続けてほしい。きっと美味しいうまみが、じわじわと染み出してくる。それが、KGKだ。

2015年4月13日月曜日

土曜日/信仰の創始者イエス/春の料理

4/11(土)

・この日は朝7:45からSkypeでアメリカと電話。アメリカにいる神学生が、僕のことを2週間に一度メンタリング(御言葉と祈りの交わりによって、僕の内なる状況に光を当て、サポートすること)をして
くださっている。この数回ずっと「信仰とは何か」シリーズ。律法主義からの解放、福音の再確認。すべての根源が、イエスの十字架にあるということ。自分には救われる根拠が一つもないということ。アロンの歩みから、それを見つめた。非常に恵みの時。

・お昼は久しぶりに休みを取った父を含めて、両親とファミレスへ。高価な料理じゃなかったけど、一緒に食事をすることはすごく励まし。「もう社会人」と大人扱いしてくれるからこそ、こういう時間がとても尊く感じられる。

・午後は、長老教会の中で組んでいるクリスチャンバンドの練習へ。3月は練習休み期だったので、すごく久しぶりな感じ。最近、このバンドの交わりが、すごく良い。3人のメンバー、みんな違う性格だし、そんなにべらべらしゃべらない(僕も)。でも、信頼関係が少しずつできてきたというか、音楽にもまとまりが出てきていて、すごく嬉しい。今度のライブにはみんなを誘いたい。


4/12(日)

・教会学校の担当が中学科男子へと異動になった。中学科男子は生徒は一人。先週信仰告白をしたS君(先日ブログにも書いた。)彼が生まれる前から知っている、そんな彼だ。今まではワークを一緒にやっていたが、今回から、自作のワーク。一緒に聖書研究ができるように、テキスト作りをしている。この日のタイトルは「信じさせてくださるイエス様」。復活ということを、聞いていても信じられなかった弟子が信じる過程、弟子が信じてもなお泣き続けていたマリヤが信じた過程から、イエスご自身が私たちの名前を呼ばれ、信じさせてくださるということに目を向けた。信仰は私たちの頑張りではなく、神様からの賜物なのだ、と。一緒にへブル12:2を開いた。

・そしたら、礼拝説教の中で「信仰は神の賜物」ということが語られ、すごく感動した。「信じるために頑張らなきゃ。」そう思っていたS君の心には、きっと今日御言葉がまっすぐ染み込んだだろう。「信じさせてくださってありがとうございます」という彼の祈りに励まされた日曜日だった。

・夜は久しぶりに料理した。鯛の塩焼きの春キャベツあんかけと、新玉ねぎまるごとスープ。春らしい、おいしい夕食でした。



2015年4月10日金曜日

「語る神」と向き合う一日

4/10(金)

・今日は関東地区主事会の研修→説教研修→主事会セミナーという、黄金の流れ。10時~21時半まで、ずっとKGK事務所にいる一日。必死で語られることに喰いついていった、そんな一日でした。

・関東地区の研修では、改めて「主事」という視点を持つことを励まされる。学生からそのまま主事に、という流れで今がある僕にとって、視点の切り替えというのは一つのテーマ。ビジネスマナーや社会人としてのあるべき姿、礼儀作法などは、「大人扱い」という意味で、主事としての視点を持つことを励ましてくれる。その中で、主事として「いつもイエス様の十字架と復活を見上げていること」というのが最初に語られたことに、僕はすごく感動した。

・説教研修では、「説教とは何か」「説教を語るとはどういうことか」という問いから始まる説教のそもそも論から、実際の説教準備の歩みまでをみっちり。まず、自分自身が御言葉に打たれ、語られ、受けること。自分自身の歩みの中で、御言葉のパワーに浸ること。その大切さが身に染みた。「神が語る」ということの、真実さという意味での「重み」を感じた。僕は聖書を読むとき、どこかであきらめたような、こんなもんだろうというような、不遜な態度でいないだろうかということが問われた。また、その不遜さゆえに、御言葉を読むことから逃げようとする自分の姿があるのではないだろうかと思わされた。ふむ、これはすごく重要なことだ。僕は、「神は語る。そしてそれは必ず成る。」ということを信じて耳を傾けているだろうか。

・そして、極めつけは主事会セミナー。今年「聖書のヒストリオグラフィー」と題して、TCUの菊池先生が担当してくださる。第一回の今日は「旧約聖書の原語①―語る神・応答する人」。説教研修の学びと相まって、本当に「語る神」が迫ってくる学びだった。神が語られるということは、当たり前のことではない。そこには「圧倒的な」力がある。「光よあれ」と言われれば、「光がある」ようになるという、絶対的力を持つ「言葉」。言葉には「質量がある」とおっしゃった、その表現もすごく迫ってくるものがあった。聖書は何かふわふわした、抽象的なことを言っているのではない。具体的で、実際的なことを、動的な、迫ってくる言葉によって伝えてくれるのだ。神の御言葉として、聖書を読む。そのシンプルかつ力強い現実に、しっかり目を向けていきたいと思わされた。

・総じて今日は、「語る神」と向き合う一日であった。

2015年4月9日木曜日

初ブロック祈祷会

4/9(木)

・今日は多摩ブロック祈祷会。とても緊張しながら、でも楽しみにしながら、会場の教会に向かう。新歓などで忙しい中、総勢8名が集まってくれた。内新入生は2名。前もって連絡を取ってくれていた九州地区の子も参加してくれたし、hi-b.a.つながりで来てくれた子もいた。みんなで使徒の1:3-14から、復活のイエスと出会う弟子たちの姿を題材に、「交わりでいること」というテーマで聖研をした。最初は僕のリードも固く、なんとなくフワッとした雰囲気だったが、メンバーひとりひとりがゆっくり、大事に発言してくれ、だんだんと盛り上がっていく。ああ、多摩ブロックの交わりは、こういう交わりなんだということを、しみじみと感じさせてくれる、とってもいい聖研だった。僕自身、新しい気付きを与えられたし、メンバーひとりひとりが御言葉を楽しみながら、神様からのメッセージに耳を傾けている姿が、何よりも励ましだった。みんなで「この交わりで、神様の召しを受け取っていこう」と思えた、何より神様が共におられるということを噛みしめることができた、素敵なブロッキだった。

・多摩ブロックは本当にひとりひとりのキャラが濃い。(ほかのブロックもそうかもしれないけれど。)ご飯を食べながら、聖研のときには見せなかった新しい表情を見せながら、楽しそうに話すみんなの姿を見て、ああ、ここにも神様はおられるんだなあと思った。御言葉に真剣に向き合い、ミラノ風ドリアに真剣に向き合う。ひとつひとつの交わりが、神様も共におられる交わりで、ブロックってすごくいい単位だなと思わされた、そんな今日だった。

2015年4月8日水曜日

「教会史」第一回/主事祈り会

4/8(水)

・今日は10時から通年の研修として開講されている「教会史」の第一回。初代教会の成り立ち、迫害、異端の誕生などを学んだ。特に心に残ったのは、「殉教」というものをどう考えるかというディスカッション。死に急ぐことはないし、生き延びれるなら生き延びるべきだが、信仰告白の問題(棄教か死か)というときに、どうするかということを考えた。棄教をパフォーマンスですればいいということや、いかなる形でも偶像礼拝はできないとか、色々な意見が脳内に浮かんでは消えを繰り返す中で、僕はふと「裏切らない」と豪語し3度裏切ったペテロを思い出した。そして、僕は「裏切らない」とか「殉教する」とか豪語できないし、たとえしたとしても、それはとっても非力なもので、イエス様はそれを知ってすでにとりなし祈ってくださっていることを思った。今は何も宣言できないけれど、自分の宣言には頼れないけれど、イエスが主であると告白し続けるものでありたいと思わされた。

・午後は主事祈り会。主事とGAで近況報告をし、祈り合うときを持つ。各地区のため、世界のため、そして、互いのため。一人10分ほどかけて、じっくり分かち合う時をもつ。人格的な交わりの場だ。この祈りに、学生時代どんなに支えられていただろうかと思う。とても励まされる、素晴らしい時だった。

2015年4月7日火曜日

初めての学校訪問

4/7(火)

・今日は午前中はOCCで働き、午後はC大の新入生歓迎会へ。主事として初めての学校訪問だった。感想は、「むっちゃ楽しい」。新入生が3名、そのうち2名がノンクリスチャンという、すごく嬉しい状況だった。一緒にヨナ書から、「神様の主権」というものを学ぶ。「神様の主体性を感じることはありますか?」という問いに対して、まったく初めてキリスト教に触れた1年生の子が「私がC大に来たのも、神様の主体性ゆえなのかな」というのを聞いて、思わず涙が出そうになった。今日神様と出会ったことが、彼女の人生の中で大きな計画のうちにあったことだと確信して、祈り続けたい。

・雨で寒かったが、こうしていよいよ主事としての働きをスタートできたこと、本当に嬉しい。今日はノートパソコンも届き、いよいよという感じ。9日の多摩ブロック祈祷会に向けて、準備を進める。

2015年4月6日月曜日

人とのつながり/父という生き方

4/6(月)

・今週最初は、N牧師と会うことから始まった。教会開拓中のN牧師。僕に「KGKのことをもっと知りたい」と言って、支える会の幹事で大学同期のMつながりで今日ついに出会うことができた。コミュニティーから教会は始まる。人と人とのつながりを本当に大事にする方だった。「KGKはまさにコミュニティーをベースにした開拓宣教だ!」と感動し、いくらでも支えたいと言ってくださった。確かに、学生が全生活(学び、恋愛、友人、家族関係などなど…)を通して、イェス様の福音を輝かせ、それが証となる…全生活を通しての証というものが、コミュニティーの中で具現化されていくKGKの宣教のあり方は、なるほど、宣教学的にもしっかりとしたものなのだという確信を得た。

・父の帰りが遅い。入学シーズン、さすがに忙しいようだ。よく「父を見ていると牧師にだけは絶対なりたくない」という言葉を聞く。僕の父は牧師ではないけれど、僕も父をこうしてそばでみていて、父と同じ職業には正直なりたくなかった。(ちょっと似た仕事に就いているけれど。)それは、職種に理由があるというよりも、よりそばで見ている父だから、その大変さが他の職業の何倍も迫ってくるというところに理由があるのではないだろうか。どの仕事も、楽な仕事などない。本気で向き合うとき、それは本当に大変な仕事。苦労を伴う。そこで生きようとするなら、自分のためだった大学という学び舎だって、そう、苦労を伴った。ましてや、働き、そこで賃金を得、家族を養い守る責任を背負ったら、どんなにそれは大変なことだろうか。そう、職種ではなく、父が大変なのだ。父という生き方が、大変なのだ。(もちろん、母もである。)

2015年4月5日日曜日

復活の日曜日

4/5(日)
・今日は復活の日曜日、イースター。イェス様が復活された、ということは、イェス様が紛れもなく神であり、イェス様を閉じ込めるような力は死にさえもないということ。一切に勝利して、どこまでも全き存在として、イェス様は復活し、今も生きておられるのです。

・今日は、僕がずっと教会学校で教えていた子が信仰告白し、一緒に聖餐に。その幸せは、なんとも言い難いものだった。彼とはもう別れることがない。共に天の交わりに加えられる、永遠の交わりに。そのことが、彼のまだ声変わりしない声で誓われる誓約一つ一つを通して確信でき、すごく幸せだった。心の底から、おめでとう。

2015年4月4日土曜日

賛美練習から問われるKGK/明日は進級式/(続)聖研作り

4/4(土)
・午前中はとある奏楽奉仕のための賛美練習。新宿で、KGKの先輩方と一緒に賛美する。久しぶりにともに賛美できる喜びはひとしお。すでに社会に出ている先輩たちは特に、その喜びを噛みしめているように見えた。同期が社会に出て、荒波に揉まれている知らせをいたるところで聞きながら、「KGKは生涯運動」という言葉の意味深さを思う。学生時代に、当たり前を思い込んでいることは、実は当たり前ではない。僕自身、襟を正されるような思いだった。主事をしていても当たり前と思ってはならない、交わりで礼拝し、賛美し、祈り合う喜び。来週のブロック祈祷会へ、心が向いてゆく。

・午後は明日に控えた教会学校の進級式のためのプレゼントを買う。文房具が通例となっている。500円という縛りの中でどれだけ高級感のあるプレゼントを買うか、教師の腕が試される。今年もLOFTにお世話になった。喜んでくれるといいなあ。

・帰宅後は、昨日から続けている聖書研究テキスト作り。とりあえず形にはなるも、まだ納得行かず。どうしても誘導尋問というか、自分の持っていきたい方向があまりに全面に出ている。御言葉の深みに誘う設問の立て方を学ぶ必要を感じる。聖書研究のテキスト作り一本でも、すでに苦悩の連続。

研修3日目/ブロック祈祷会に向けて

4/3(金)
・研修3日目。職務規定、卒業生会、ホーリスティックな運動論という3本の学びをする。それぞれに興味深さを感じる一方で、情報量の多さになかなかついてゆけず、自分の中ではまだまったくまとまりきっていない状態。むむー。

・多摩ブロック4月祈祷会に向けた準備。今回のブロック祈祷会では「聖書研究」を行う予定。僕が「ブロック祈祷会をする意味」というテーマに向かっていく聖書研究を作成することに。ブロック祈祷会の要素として①礼拝②祈り合い③交わりという3つがあり、それらがいかに聖書的に根拠づけられているか、また実際のブロック祈祷会において具現化されているか、という点に着目してみる。特に今日は聖書的に「交わり」というものがどのように位置づけられているかという切り口から考察してみる。テキストは一応仮決定。明日実際の聖研テキスト作りに取り組んでみようと思う。

備忘録として。

主事になった。

正確には、
関東地区キリスト者学生会非常勤主事になった。

これから、自分の働きをこまめに記録するという目的で、
また、それを見て祈っていただくという目的で、

このブログを執筆してゆきたいと思う。

ブログを続けることはなかなか難しいと聞く。
あまり気張りすぎず、備忘録として書き留めてゆきたい。


【備忘録】
忘れた時にそなえて、要点をかきとめておくための手帳。メモ。
(岩波 国語辞典 第7版より)