2016年10月28日金曜日

順序

・物事には「順序」というものがある。この前にはこれをしておかなければとか、この後にはこれをするとか。一つのことがそのものだけで存在したり起こったりすることはほとんどない。何かがあって、何かが起こり、それが何かを生み出す。その繋がりは、誰にも意識されないことも多い、という意味で、ちょっと透明である。

・この繋がりを意識し始めると、ちょっと世界の見え方が変わる。このことの前にはこれがあって、これがなければこのことは存在しえないということがわかったりすると、なにか大事な流れのようなものを感じることがある。川のような、一定の速度で一定の方向に向かっていく、流れのようなものを感じることがある。それは、「運命」という言葉から、その言葉が持つ悲壮感と諦めを取り除いて、そこに自分のことをいつも見つめてくれている暖かい存在を付け加えたような、そんな感じである。安心に近い感じである。

・導き、という言葉が、その感じに一番近い言葉だと思っている。運命という言葉は冷たい。導きには人情というか、人格がある。愛がある。その導きの中を生きる人生は、安心感がある。一定の速度で一定の方向に向かっていく流れ。それが「神様の意図」だとするならば、僕は本当に生きてきてよかったと思うことができる。

2016年10月12日水曜日

止まる筆

・また、久しく筆が止まってしまった。ただ、それは決してただの悪いことではなかったように感じている。というのも、僕が日常的に書くものとして、①三行日記②感謝ノート③思索ノート④ブログ(これ)という4種類があるが、その前者2つがしっかり書けているときは比較的健康な時で、後者2つの筆が止まらないときは何かしらに苦しんでいるときことが多いからだ。このブログの筆が止まってしまった間、僕は間違いなく日常を走り抜けていたし、筋肉痛になるほど笑ったし、怒られるほどはしゃいだ。主事としての歩みを一つ一つ噛みしめながら、奥歯でゆっくり強靭に噛みしめながら歩いた。だから、きっと、思索は深まり分かち合いたいことはゆっくりしかも着実に降り積もっていったけれども、パソコンに向かってカチャカチャと語り込む時間はなかったわけだ。それは決してただの悪いことではなかった。と思う。

・久しぶりに、口で後悔した。言わなくてよかったなあと思うことを言い、あんな言い方しなくてよかったなあと思うような言葉を選んでしまった。この後悔―関係各所に頭を下げに奔走したくて仕方なくなるような―は、わりかし久しぶりで、戸惑っている。こんな時、どんなことが誠実を尽くすことになるのか、いや、どんな「類の」誠実を尽くせばいいのか、途方に暮れてしまう。すべて、一点の曇りもなく、自分の身から出た錆だ。

・こんな後悔に、じっと耐え抜くとき、僕は試される。動くか、動くまいか。なんのために動くのかが揺さぶられる。「使命は感情によって揺さぶられるが、使命から生まれる感情は大切にされるべきである。」僕のこの感情は、不気味に僕の心の中心を浮遊している。

2016年7月20日水曜日

神様が、今日語られた

・「神様って、生きておられるんだなあと思いました。」今日、説教を終えた直後のある学生のレスポンス。本当に嬉しかった。なぜなら、僕も本当にそう思うから。

・説教を準備しながら思うことがある。それは「神様は生きておられる」ということ。あの群れに、今月、神様が語ろうとしておられることがある。そのために、神様が言葉を紡いでおられる。わたしにとって、説教とはそういう時間。あの群れに、主が語られる。あの日集められた民に、神様が語ろうとしておられることがある。

・それを受け取ってくれる学生がいる。感謝なことだ。そして、「勇さん、いい説教ありがとうございました」と労ってくれる。本当に嬉しいことだ。そして、同時に思う。神様が、いいことばを紡いでくださったのだよ、と。

・「神様が、今日語られた。」その実感をもってメッセージを聞き終える人がどのくらいいるだろうか。これはみことばを取り次ぐものとしては常に緊張感を持つべき事柄ではないだろうか。神様が語られたということをどこまでも大事にしなければ、「説教」と「説得力のある講話」の境目に徐々に靄がかかっていく。

・だから、今日の学生のレスポンスは本当に嬉しかった。「神様って、生きておられるんだな。」このリアリティーがある説教の時間を目指したい。月に一度の説教の時間が、主の躍動を、主の脈打つ生命の息吹を、学生とともに感じる時間でありたいのだ。

2016年7月12日火曜日

ベール

・人から愛されることを願う。人から評価されることを求める。人に労ってほしいと思う。慰めてほしい、励ましてほしいと思う。認めてほしいと思う。

・僕にはこのような願い、求め、思いがとてもある。そして、それを実際に会話の中で暗に要求したりする。それに乗っかって僕を労ったり、慰めてくれる人がいる。すると僕はうれしい気持ちになる。

・一方で、それには乗っからない人もいる。意識して乗らない人もいれば、無意識に乗らない人もいる。すると僕はちょっと落ち込んで、失望して、「卑屈」という薄いベールで心を覆う。

・調子が悪くなればなるほどその傾向は強まっていく。求め、挫折し、卑屈になる。だんだんベールが壁になっていく。態度や言葉に卑屈さがにじみ出ていく。そして、じわじわと、自分の周りが、壊れていく。

・このような経験を僕は繰り返しているし、きっとこれからも続けていくのだろう。この自分とは、戦い続けねばならない。僕の根底に流れている罪の現実の表出だ。

・今朝、聖書を読んだ後、その自分について黙想してみた。すると、すごく単純な思いが、ふっと降りてきた。

・人から愛されることを願っている。けれども、主はすでに私を愛しておられる。人から評価されることを求めている。けれども、主はすでに私を評価しておられる。人に労ってほしいと思う。けれども、主はいつも私を労っておられる。慰めてほしい、励ましてほしいと思う。主は私をいつも慰め、励ましておられる。認めてほしいと思う。主は私を、いつも、認めてくださっている。

・主にまず求めるべきものを、人に求めている自分に気付く。今までの歩みが偶像礼拝であったと気付く。主にしか埋められない心の渇きを、人で埋めようとしている自分に気付く。海水でのどを潤そうとしていた自分の愚かさに目が開かれる。真水を求める。渇くことのない、主の泉を求める。

・思えば、自分が回心した大学一年生の時のキャンプは、まさにこの一連の流れを味わったキャンプだった。友達ができない。卑屈になる自分。どんどん人が自分から離れていく感覚。一人でもどった最終日の部屋。主に交わりを求めた。すがるように「私の友になってください」と主に祈り求めた。その時に与えられた平安は、今でも心がしっかり感覚として覚えている。

・今朝、その時の平安を味わった。移り行く人の心。安心できるときなど一時もない。けれども、主は変わらない。私たちがどんなに変わっても、主は変わらない。その平安を今朝、私は心に刻んだ。卑屈さのベールが、一枚脱げ落ちたように感じた。



「イエスは答えて言われた。『この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。』」ヨハネ4:13-14

「御霊も花嫁も言う。『来てください。』これを聞く者は、『来てください。』と言いなさい。渇くものは来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。」黙示録22:17

「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」へブル13:8

2016年7月7日木曜日

できることからする

・僕にとって、夏前は何とも言えない重たい時期だ。夏に向けて、用意するべきことや漠然と見える大きな山々に、心がなんとなく重くなる。本当にこれらをこなすことができるのだろうか、という不安は、思ったよりも大きく重たい。

・こういうときに、やる気は思ったよりも出ない。やれそうかも、と思った次の瞬間、何もしたくなくなる。よし、やるか!と立ち上がった瞬間、ほかのことをしたくなる。こういったある種の怠惰さは、次第に自己嫌悪となる。けれども、どんなに自分を嫌悪しても、そこにやる気は生まれてこない。

・うじうじしながら、部屋でゴロゴロしている。携帯を見ている。Facebookに流れてくる友達の「日常」に、無責任に「いいね!」と評価を下している。そこに、やる気は生まれてこない。

・そんな中で思う。なんでこんな状態なんだろうか。そんな中で考える。こんな自分に価値があるんだろうか。そして、そこで僕は気づかされる。自分で自分の価値を造り出そうとしている自分に。

・なしたこと=自分の価値、という等式が、思った以上に僕を支配している。何もなせない自分を受け入れられない自分の根底には、そのような等式がある。やる気が出ない自分は、価値がないと思えてきてしまう。

・こういったうじうじの中で、聖書を開く。聖書はあきらめずに僕の価値を語る。神様の存在を語る。どんな状況にあっても、僕を今日も生かしたもう神様の姿がとうとうと語られ続けている。

・そして、もう一度立ち上がろうと思う。できることしかできない、と思う。僕が今日できることをしようと思う。書くべき原稿がある。返すべきメールがある。けれども、すべきことをする、という以上に、できることしかできないということのほうが、僕にとってはよいスタートラインになる。できることから始めるとき、すべきこともできるようになる、ということが少なくない。

・すべきことを数える以上に、できることから始めたい。一日一つしかできないかもしれない。けれども神様が今日私に託して、私の手足を通して進めようとされている「出来事」があるならば、そのために生きたいと思う。働きの主体は、私ではなく、神様なのだから。

2016年7月4日月曜日

誠実と謙遜



誠実と謙遜。

昨日の説教で心に残った言葉。
今の自分に実に必要な言葉だ。

2016年6月15日水曜日

聖定論の励まし

・久しぶりの投稿。どうしても滞る時期がある。滞る、ということもひとつの「記録」だと受け止める。久しぶりに、考えたことを書こう。

・KGK主事には研修が豊富にある。今日はそのうちの1つである大嶋総主事による「神学研修」。牧田吉和著『改革派教義学2ー神論』を読み進める。今日は「聖定」がテーマ。

・結論から言うと、本当に励ましに満ちた学びであった。聖定とは、「神の永遠の御定め、ご計画」のこと。神の御心、ご計画についてである。

・聖定、それは決定論や宿命論的なものではない。神様が永遠に定めてくださっていることであると同時に、そこには私たちの自由が生き生きとある。この、二律背反に思える2つの事柄が、ひとつなのだという牧田先生の言葉は、もはや信仰告白であった。

・聖定は、「世界と歴史と人生において起こり来ることの一切を包括している。」この言葉が本当に僕を慰めた。全知全能の神が、もっとも賢く最善であられる神が、すべてのことを定めてくださっている。目の前で起こるすべてのことを、「これは主の御手の中で起きている」と受け取ることは、本当に慰めである。「神の聖定は最善の神の定めである。神の聖定にあっては、このようであれば、あるいはあのようであればよかった、というようなものはない。最も深く配慮されているからこそ、神の聖定は慰めの究極的根拠なのである。」

・「もっとシンプルに生きたい。」学びの前にある分かち合いの時間に、思わず自分から湧き出てきた叫びである。自分も驚いた。そうか、僕はそこに叫んでいたのか、と気づかされた。年や身分に合わない場に出て行き、様々な期待を勝手に感じ、重くなり、逃げたくなり、けれども期待されることは快感でもあり......。その中で、ぐるぐる頭がよくわからないことになり、思考停止してきていた。何のために生きているのか。少しずつピンボケしていってることに、自分自身、薄々気づき始めていた。

・改めて、目の前で起こっていることを主の出来事として受け取る。すべての事柄を、神様の御意志が貫いていることを思い出す。そこにはイエスキリストがおられる。私をこよなく愛し、死んでまで私を愛してくださった神様の御愛のあらわれがそこにある。その救いという厳然たる事実が、今日の私を貫いている。

・神様に救われたものとして生きる。私を救われたイエス様の父なる神様の最善が、今この目の前のことを貫いている。なんという慰めであろうか。なんという活力であろうか。生きよう。そんな思いが湧き上がる。

「イエス・キリストの神の絶対的主権性の告白は、人間の自由の圧迫を意味せず、むしろ人間の自由が感謝と喜びのうちに本来の生き生きとした力を回復することになる。」牧田吉和著『改革派教義学2ー神論』p.159

2016年5月8日日曜日

恵みに押し出されて

・神様の恵みとは、「良いこと」というレベルを遥かに超えたものである。

・5/3-5の日程で、日本長老教会の全国青年カンファレンス「恵みに押し出されて~僕らは担い手~」に参加してきた。普段は会うことができない、愛する友たちと過ごす三日間は本当に喜びだ。

・その一方で、僕は今回のカンファレンスにくるまで、なんとも重いものを背負っていた。それはあまり言葉にならないもので、どう形容していいかわからないものだった。前回のブログで記したような「自分への絶望」がその根底には流れているように思うが、そんなに単純なものではなかった。人からの評価への依存、「できる奴」と思われたいという願い、むしろ「ダメなやつとは思われたくない」という恐れ、人を失望させたくないという恐怖。そういうドロついたものが、背中にこびりついているような、暗澹たる思いを背負っていた。

・講師のN先生は初日、イザヤ46:1-4を開いた。そこは、偶像を背負い、勝利したときはその神々のおかげだと喜んでいた民たちにとって、負けたときにその神々はただの重たい石であり、家畜に乗せられ運ばねばならない「重荷」でしかなくなってしまっている情景と、私たちを生まれる前から背負い、白髪になってもなお背負って運んでくださる神様の姿が鮮やかに対比されていた。

・人からの評価、人を失望させたくないという思い。それは、上手くいっているときにはまるで自分のエネルギーであり原動力であるように感じられるだろう。しかし、一度失敗や挫折の中を歩むとき、それらは決して僕を助けてはくれない。それどころか、僕を責め立て、追い込んでいく。

・メッセージを聞きながら、石の神々を背負って必死に戦う民たちの滑稽さと、自分の今の姿が重なった。そして、その僕を背負い救い出す約束をしてくださっている神様の存在に気がついた。自分にどんな能力があるからとか、どんな期待に応えられるからとか、そういう理由で僕を背負うのではなく、母の胎にいるうちから、僕に目を留め、「わたしは神、あなたの神。」と言ってくださる神様が、僕を背負って救い出してくださるのだと。

・「恵みに押し出されて。」この言葉の意味は深い。恵みに応えよう!と僕らを鼓舞する言葉ではない。恵みに、私たちは「押し出される」のである。このことを、純粋に味わった。テーマソング「恵みに押し出されて」に、こんな歌詞があった。

これまでの道倒れる私を何度も主は起こされた
これからの道踏み出す私を何度も主は励ます

・この歌詞を、僕は涙なしで歌うことができなかった。これまでの道、倒れる私を何度も主は起こされた。これからの道に踏み出す私を、何度も主は励ましてくださる。なんという恵みだろうか。いいことがあるとか、悪いことがなくなるとか、そういうことではない。主は共に歩んでくださるのだ。それ以上の恵みがあるだろうか。嘆きの日も、喜びの日も、主は私と共に歩んでくださるのだ。それ以上の喜び、平安があるだろうか。

・改めて、インマヌエル、主は共におられるという言葉の慰めを思う。主が共におられ、導いてくださる。その底知れぬ恵みを覚えて、明日を生きたい。

2016年4月27日水曜日

小骨

・この一年間、抱え続けてきた思いがある。言葉にならず、胸に疼いていたものがある。思えばなかなか消えない不全感も、自分はダメな主事なんじゃないかという不安も、根底にはその疼きがあったのかもしれない。

・その疼きが今日、とある先輩との交わりの中で言葉になった。それは、『もしかしたら、僕はとてつもなく自己中心で冷酷な、他者への関心のない人間なのではないだろうか?僕は、自分こそが一番正しいという絶望的な傲慢さを持つ、他者への尊敬のない人間なのではないだろうか?』という問いであった。

・思えば、この問いはいつも魚の小骨のように僕の心に刺さっていた。学生と向き合う時、主事のミーティングに出る時、青年キャンプで準備の打ち合わせをする時、目上の人と一緒に仕事をする時……。この一年間、色々な場面で僕は疲れた。もう嫌だと思った。しかし、その原因は僕にはないと思っていた。だから、なんで上手くいかないのか、モヤモヤと悩んだし、答えが出なかった。だからその原因を、環境や自分の体調などに勝手に寄せ上げていた。

・しかし、1つのことに気づいた。僕は関わっている全ての環境で、共通する課題を抱えていた。それは、人のことを大切にできず、敬意をもって接することができないということだった。人に関心をもつことができず、その人を尊敬できないということだった。気が合う合わないの問題ではない。誰に対しても、僕は関心と敬意のない関わり方をしてきていた。それが現象として現れるかどうかは、あくまでその相手が寛容に僕を気遣ってくれているか否か、ということだけの話だった。

・僕は、人のことを大切にできていない。僕は、自分が大好きで、自分が中心で、自分が良ければよい、そう思っているのだ。僕は極めて冷酷で、人に関心がない。僕は、目上の人に心から敬意を払うことが苦手だ。なぜなら、自分が一番正しいと心のどこかで強く思っているからだ。

・『そんなことないよ。』たいていの友達は、そう言って励ましてくれる。そうか、そんなことないか、僕は優しくて、人のことをちゃんと尊敬しているか。そうか、そうか……。今までは、そうやってのらりくらり、寛容で優しい友達の言葉に身を任せて乗り切ってきた。しかし今日、先輩はこういった。『自分のこと暖かい奴だって思ってる方がよっぽど胡散臭い。本当の俺らは、自己中心で、冷酷なんだよ。』

・そうか、僕はそのことを心のどこかでわかりながら、認められずにいたんだ。それが心で疼きとなり、ズキズキしていたのだ。『本当の俺らは、自己中心で、冷酷なんだよ。』……。その言葉は、認めるには苦しい、悔しい、苦々しい言葉だったけれど、飲み込んだその時、小骨が取れる思いがした。

2016年4月24日日曜日

神の義

・最近ある友人と話していて思ったことだ。僕は、自分自身のことを「正しく」評価できているのだろうか。

・僕はある人を尊敬している。(もちろん一人ではない。)そして、その人がいうことが、時に僕の考えや思想とは相反すると感じる。それは極めて健全なコミュニケーションとして進み、僕はそれを通して自分は間違っていたとか、自分が偏狭なものの見方をしていたとか、そういうことに気付く。そしてそのプロセスに「成長」という名前を記念碑的につける。

・一方で、僕はある人と話していて、「それは違うだろう」と思うことがある。その考えの組み立て方、思考の経路は、どこかでミスを含んでいると。もしくは、落としている重要なキーポイントがあると。そして(それを指摘するか否かは別として)その人からは、その時の会話からは学び取らないという選択をすることがある。その時の自分は、「成長する」自分ではなく、「成長した」自分である。少なくとも自覚的には。

・こういったやり取りの中で、ふとそういう「自分」は何者なのかという問いが浮んでくる。何かに正しいとか間違っているとかそういう判断を下して生きている自分である。何かを受け入れ何かを拒否している自分である。その自分は果たして本当に「正しい」のだろうか。

・そもそも、本当の「正しさ」を探すことは本当に難しい。そうだ、それは創造主なる神にある。聖書はそれを「正義」と呼ぶ。そして、創造主なる神にこそその正義があり、創造主なる神にのみ、その正義があるという。そしてこう告げる。「神の国とその義をまず第一とするとき、全てが与えられる。」

・神の義とは何だ。神の義をわが義とする生き方とは何だ。そこにある絶対性への畏敬を抱えながら、僕は「自分とは誰なのか」という問いを片手に、「神の義」という言葉を反芻する。

2016年4月20日水曜日

あるから

・九州の地震のニュースを見る。いてもたってもいられなくなる。まず現地に行かねばと思わせる、熱く迫ってくるものがある。と同時に、行っても役に立たない、邪魔になるだけだという冷静な自分もそこにいる。この揺らぎ、心の締め付けられるような感覚が、ずっとある日々だ。

・僕ができることは一体なんなのだろうと自問する。自分はどうしてこんなにも迫られているのかと、呼吸が苦しくなるほど想うのかと、自問する。自問し続けるうちに、そこには完全にピュアだとは言い切れない自己顕示欲や、無関心だと思われたくないという苦々しい自己嫌悪が、不気味に静かに、しかし確かにあることに気付かされていく。僕を駆り立てる衝動のような思いに、平安がないのはそういうことか。

・いいことをすることと、本当に「いい」ということは、似て非なるものである。そして、こういう時、まるで攻め立てられているような感覚に陥らせるものが、SNSやネットにはあふれているように思う。誰も悪くない、しかし確実に蝕まれている心があるように思う。少なくとも僕の心は疲弊している。こんなときだからこそ、僕は考えたい。今僕はどこにいるのか。

・目の前にあることを、精一杯。月並みなことだ。そして今のところ僕は消去法でしかここにたどりつくことができなかった。なんとも無念。惨めである。しかし、目の前に確かに「ある」ものが「ある」から、僕は明日も家を出かけ、言葉を語り、人の話を聞く。明日も生きるつもりだ。何かに追われているような、そんなジメッとした感覚を背中に感じながら。

2016年4月12日火曜日

新年度のブロック祈祷会へ

・今日は、今年度初のブロック祈祷会。多摩地域の学生が集まり、ともに御言葉を開き、祈る。また、毎月のこの営みが始まろうとしている。

・今年度は、「主の祈り」を一年間かけて学ぼうと思っている。祈り会が基本に据えられる学内活動。こうしたブロックでの集まりも、中心は「祈り」だ。しかし、実は私たちは心の奥底で知っている。自分がいかに祈りに貧しいものであるかを。

・そんな自分の祈りの貧しさを否定するのではなく、認め、謙虚に祈りの大切さを学びたい。そんな思いをもって、今年度はこの箇所を説き明かす。たった数節だが、私たちの信仰の歩みを刷新する箇所だと信じる。祈りが変わるとき、信仰の歩みが変わる。そう信じて、丁寧に講解していきたい。

2016年4月7日木曜日

気づけば新年度

・気づけば新年度。このブログも2月以降更新していなかった。怒涛の2-3月だった。ブログを備忘録として書いていきたいのだが、どうしても忙しいと優先度が落ちてしまう。今月から、また気合いを入れなおしてしっかり記録していきたい。

・思ったことや考えたことの記録を残すことは、自分にとってとても大切なことである。言葉化の作業を通して、自分を客観的に見る材料を作り出す。自分を客観的に見るためには、逆説的だが、主観的な言葉をしっかり紡ぐことができるかどうかということが問われる。自分はこう思っているということをしっかり言葉にすることで、その言葉を読むときに、私の率直な思いを、客観的に見ることができるようになる。そうやって自分の歩みを定点観測していくのが、自分にとっては最もやり易いようだ。

・ブログだけでなく、手で書くノートもまた自分にとっては重要である。手書きのノートがこの一年間で数冊増えた。思索ノート、日記ノート、感謝ノート、祈りノート、聖書ノート、ビジョンノート。これらのノートに綴った思いや感謝は、決して色あせることなく、大事な自分の一部になっている。

・記録ということを改めて考える。基本的にそれは人に見せるためのものではない。あくまで自分に向けられたものである。しかし、ブログは少し異なる。それは不特定多数が読むものである。ということを考えると、果たしてこのブログがどのくらい益となるものとなっているのか甚だ疑問ではあるが。…まあ、今年一年も、主事として、また一人の人としての苦悶と感謝の歴史を、ここに綴っていければと思っている。

2016年2月16日火曜日

理想と洞察力

・理想を持つことは、いいことだ。理想を携えて、一歩一歩前に進むことは、活力になる。理想はエネルギーを生む。こうなりたい、あのようになりたい。その強い思いは、人を変え、組織を変える。

・一方で、理想は暴力的になることがある。野放しの理想は、手綱を離した馬のようなもので、どこに走って行くのかわからない。それを制御するエネルギーが必要なのだ。理想はエネルギーを生むが、それと同時に、それを制御するエネルギーもまた必要なのである。

・その理想を操るエネルギーはどこに在り得るだろうか。その一つは「洞察力」であるように思う。現状をよく見て把握する力。自分の置かれている場所をよく見て把握する力。自分がどんな文脈に生きてきて、どこにいて、どこに向かっているのかを考える力。自分がどんな組織の中にいて、どんな人と生きていて、どんなものを任されていて、どんな召しの中に生きているのかを、知る力である。その力は先人への尊敬を生み、破壊的な改革を止める。忍耐を生み、じっと思考する時間を造り出させる。

・僕は今、その「洞察力」を養わねばならない。自分という包括的な人格が、どんな文脈の中に行かされているのかを、よく「洞察」しなければならない。そこに、自分の召しを見出していく。色々な道が開かれ、色々な道が閉ざされる中で、自分がどこにその一歩を進めるのか。僕にはまだまだ、じっと思考する時間が必要なのだと思う。

2016年2月11日木曜日

2月11日

・今日は2月11日。信教の自由を守る日、という呼ばれ方をすることも多い日で、キリスト教界では「信仰と社会」ということを考える日となっている。各地で集会が開かれている中、僕は日本基督教団西東京教区社会部委員会主催の集会にパネラーとして参加してきた。

・日本基督教団のイベントに、KGKの主事として呼ばれるのはとても嬉しいことだった。いわゆる「主流派」と「福音派」という言葉の間にある溝(それぞれのことばの定義すらあいまいなのだが)を意識しながら、よりより距離感で、本当に耳を傾け合い互いに学ぶ関係づくりをしたい、という思いは、この春の長崎での神学フォーラムに参加して以来ずっと持ち続けている思いだったからだ。

・社会から福音を考えるのではなく、福音から社会を考える。その視点を終始意識して語らせていただいた。「信仰の事柄」という言葉は、どのように響いただろうか。自分の言葉で、「人が人として見られない」世界への思いと、またそれを信仰でどう受け取って、歩んでいくかということを語らせていただいた。

・「若者が希望です」と、よく言われる。期待してくださることは本当に喜びであるし、力である。しかし、神様の御国の完成を待ちのぞみ、そのために途上に生きる私たちにとって、本当の希望はこの地上に来る神様の御国であるし、その希望を持つ人全員が希望なのである。老若男女問わず、全ての人が希望であり、当事者なのである。「もう年だから」という悲しいことを言わずに、その凝縮された人生経験を用いて、御国建設事業に前向きに取り組んでいただきたい。そういう意味で、年を取られた方も、希望なのであると強く思った集会であった。

・ここも神の御国なれば、と賛美した。「御国が来ますように」という祈りの力強さと決意を噛みしめた。よい2月11日を過ごすことができた。

2016年1月21日木曜日

「どこに行くのかを知らないで出て行く」信仰について

・最近また創世記から聖書を読みなおしている。電車の中など、時間が空いたところで、とにかく読めるところまで読む、というスタイル。毎朝のディボーションはエレミヤ書を読んでいるので、旧約聖書漬けの日々だ。

・その中で、昨日一つの発見があった。それは、僕の中で「なぜアブラムはカナンに向かったのか問題」と呼ばれているものについて、だ。

・創世記12:1-3。「その後、主はアブラムに仰せられた。『あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたの大いなる国民とし、あなたを祝福し…。』」

・この箇所は、いわゆる「アブラハム契約」とも呼ばれるところで、神様がアブラムを「神様に従う、神の民としての歩み」に招き、その祝福を約束してくださっているところだ。非常に有名で、よくメッセージでも語られる。これから後、代々神の民に継承されていく祝福の約束の原点だ。

・この箇所に疑問があった。それはずばり、「わたしの示す地へ行きなさい。」について、だ。

・よく、進路に迷った学生の話を聞くことがある。また、判断や決断を下すときに、迷っている学生の相談を受けることがある。その時、最もよく聞く言葉が「どれが神様の御心かがわからない」というものだ。何かを決める時、御心がわからなくて、決断できない。この感覚は、キリスト者として生きてきたものなら(そしてまじめであればあるほど)、一度は味わったことがあるのではないだろうか。

・そんな私たちにとって、「わたしの示す地へ行きなさい」という言葉だけで、「どこを示されたのか」は一言も言われていない(少なくとも聖書には書いていない)アブラムが、「主のお告げになったとおりに出かけた。」(12:4)、実に驚愕の事実である。どこに出かけたんじゃい。まず、どっちの方角に一歩足を踏み出したんじゃい。それがわからない。他の聖書箇所を見ると、アブラムは「どこに行くのかを知らないで、出て行きました」と書いてある(ヘブル11:8)。これは決定的だ。彼は、どこに行くのかを知らないで、出て行ったのである。なんじゃそりゃ、ということだ。

・そして、わたしは思うのである。「せめて、東西南北は教えてよ」と。どっちの方角に歩みだすかくらい、教えてよ、と。しかし、アブラムは「どこに行くのかを知らないで」、その一歩目を踏み出したのである。すると、彼はどのようにその一歩目の方角を定めたのか、ということが大きな問題になる。これが、「なぜアブラムはカナンに向かったのか問題」である。

・これが、昨日聖書を読んでいて、解けたのである。その答えは創世記11:31にあった。こんなに近くに記されていたのに気が付かなかった僕の聖書を読む目は節穴だったとしか言いようがない。そこにはこう書いてある。「テラは、その息子アブラムと、ハランの子で自分の孫のロトと、息子のアブラムの妻である嫁のサライとを伴い、彼らはカナンの地に行くために、カルデヤ人のウルからいっしょに出かけた。しかし、彼らはカランまで来て、そこに住みついた。

・彼の父テラは、「カナンの地に行くために」、生まれ故郷ウルを出た人だった。そして神様は、アブラムをこう招かれる。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。」そこで、アブラムは、父が生まれ故郷ウルを出、このカランという地に今いる、という「文脈」を理解し、ひとまず、その文脈の中で、カナンを目指したのではないだろうか、というのが、この問題のひとまずの帰結である。

・ポイントは、彼が「自分がどんな文脈の中にいるのかを知っていた」ということである。父テラからずっと聞かされていたのか、はたまた神様に召し出された時にじっくり調べて考えたのか、それはわからないが、少なくとも彼は自分が今どんな文脈の中で生きていて、どんな過去を背負っているのか、ということを確認したはずだ。「父の家を出る」には、「父のことを知る」必要があったし、「父の歩みの意味を再考する」必要があった。それは父や過去を捨てることではなく、むしろそれを背負って生きることだった。

・私たちも「御心がわからない」時に、このステップを踏むべきなのではないだろうか。おみくじ的に、分岐点に立って初めて「右か左か」ということを天を仰いで神様に聞くのではなく、自分がどういう文脈で生きてきているのかを、具体的に調べる、考える。その中で、今まで神様がどのように自分を導かれていて、自分がこれからどういうところに置かれようとしているのかをじーっと考え、祈り求める。その流れの中に自分をおいて、神様の取り扱いの歴史をしっかりと吟味する。こういったことから、私たちは「神様の導きを求める歩み」を考える必要があるのではないだろうか。

・その場で即時的に答えをポン!と与える、ガチャポンのような神様ではなく、天から見守り(父)、隣を歩み(子)、内に住んでくださる(御霊)、本当に私たちと一体になって歩んでくださる神様に、アブラムのように信頼していきたいと思わされた。


2016年1月14日木曜日

祈りについて

・祈り、ということを最近考えさせられている。僕は、今まであまりに祈ってこなかったのではないか。

・祈るには、時間を確保する必要がある。もちろん、歩きながら、信号待ちをしながら、電車に揺られながら、祈ることもできる。しかし、僕はそういう時間、たいてい何か考え事をしているか、心配事をしているかだ。その、いわば「隙間時間」を祈りで埋めていくには、まず大きな時間をしっかり「祈りのために」割き、祈る喜び、祈る醍醐味を味わう必要があると思うのだ。

・僕が最近祈る時に意識しているのは、時間をしっかり確保することと、具体的に祈ることだ。特に、人のために祈る時は、その名前を挙げて、具体的なその人の必要を脳みその限りで考えてる。これはすごく良くて、その恵みはまず自分に返ってくる。

・というのは、誰かのために祈っていたとしても、祈りは僕と神様の関係性の中で起こっていることだからだ。例えばそれは、僕が父親と、僕の親友について話をするようなものだ。それは勿論親友のことを思う時間だし、親友を愛する時間だけれど、その時間を通して僕は父ともまた親密になる。父に今まで話していなかったことを話すことになる。父が僕について、もっと知ってくれる。僕はそこで、親友とより深く愛し合うと同時に、父との愛し合う関係も深めることになるのである。

・改めて、祈りは大切である。それは神様との愛し合う関係を深め、僕たちの周りにいる祈られるべき人々との愛し合う関係をも深めてくれる。そして、祈られるべきでない人など、僕の周りにはひとりもいないのだ。

・具体的に、彼らのことを祈る。一人の部屋で、静まって、「神様。」と呼びかける。見えないけれど、そこに間違いなく神様がいてくださることを確信させられてゆく。僕の場合、このプロセスだけで5分は必要だ。神様が、いる。間違いなく、いる。そのことを確信させられてから祈り始めるとき、僕は今までになかったような平安の中で、祈りをささげることができる。

2016年1月12日火曜日

今ここに生きる

・昨日まで、15同期会の合宿に行ってきた。それは、一緒に大学を卒業したKGKの仲間たちとの再会。各地に散らされつつ、いろんなところで学んだり、働いたりしている仲間たちとの再会だ。

・講師のS子さんは、こう仰った。「今までは共通点で集まっていた同期会。しかし、共通点は確実に減ってゆく。結婚する人しない人。子どもがいる人いない人。仕事の悩みも全然違う。共通点は確実に減ってゆく。」本当にそうだと思った。単純に共通点が多いから、共感できるから、という理由で集まる同期会から、次のステージへの移行が促されている。

・この合宿で、僕は仲間とともに「神様に取り扱われる」という経験をした。夜、僕は死ぬほど喋った。主事という働きの難しさ、葛藤、悩みを、とめどなく一時間以上喋り倒した。みんな、本当に忍耐を持って聞いてくれた。(実際、失望したこともあっただろうし、何より眠くて疲れていて、本当に忍耐が必要だっただろう。)僕は堰を切ったように、自分でも驚くくらいに喋った。次から次へと、心の奥にあるものが流れ出た。叫びが流れ出た。怖いくらいだった。イメージとしては、『千と千尋の神隠し』のオクサレ様だ。

・何も問題は解決しなかった。彼らはただただ聞いてくれた。そして、最後に祈ってくれた。僕もみんなのために祈った。これが同期会なんだなあと思った。神様に取り扱ってもらう経験をするとき、隣にいる仲間。同期会合宿に行って、本当によかったなあと思った瞬間だった。

・S子さんは、こんなことも仰った。「私たちは、過去の失敗を引きずり、未来のことを心配している。そうやって、『今、ここ』という、現在の自分を失ってしまっている。今、自分はどこにいるのか。『今、ここに生きる自分』を取り戻す必要があります。」

・働き初めて3か月目、6月のブログを読んだ。そこには、学校訪問をする喜びに溢れ感謝している自分の言葉があった。今、ここに生きる時、そこに溢れる恵みに目が向く。自分の内面を振り返り、味わうことも確かに必要だけれど、今、自分に間違いなく注がれ続けている神様の恵みを味わうことを止めてはならないし、その自分を取り戻さなければならないと、強く思った。

・同期会合宿に行って、僕は心の奥にある叫びを大声で叫び切った。そして、今ここに生きる自分を失っていたことに気付き、ほんのちょっと、その自分を取り戻し始めた。今日注がれる主の恵みに目を向けて、今日もまた、歩もうと思う。

2016年1月8日金曜日

苦しみと慰め

・2016年のキーワードは「苦しみと慰め」になりそうだ。

・主事という働きは勿論、僕にとってキリスト者としてこの地上での歩む中で、「慰め」という言葉がキーワードであることは間違いない。それは、単純な意味で二つに分割することができる。「僕にとっての慰め」と、「あなたにとっての慰め」である。この二つのテーマについて、今年は特に考えてゆきたい。

・僕にとっての慰めとは何だろうか。僕は何に慰められているだろうか。逆に、僕は何がないと傷つくのだろうか。この問いは、なかなかに鋭く心の深層にまで手を伸ばしてくる。それは普段僕の意識に及ばない、認識のグレーゾーンまで届いてくる問いである。しかし、そこまで脳みそをぐいっと引っ張り込んであげないと、見えない世界の価値観がある。そしてそこはいつか取り扱わなければならない領域である。なぜなら、そこの世界の価値観が、僕の実際の歩みを規定する力を持っているからである。改めて、僕にとっての慰めとは、何だろうか。

・あなたにとっての慰めとは何だろうか。あなたは何に慰められているだろうか。僕がどうすることがあなたを本当の意味で慰めることになるだろうか。この問いは、またちょっと性質の違う問いである。ポイントは、その問いが「あなた」と呼ばれる他者の認識のグレーゾーンまで届く問いであることだ。人の慰めになるとはどういうことだろうか。人を本当の意味で慰めるものとは何なのだろうか。同情か、共感か、解決策か。励ましか、寄り添いか。楽観か、悲観か。改めて、あなたにとっての慰めとは、何だろうか。

・慰めと苦しみには関係がある。これは間違いないことだと言っていいだろう。慰めを必要とするのは、多かれ少なかれ苦しみの内にあるときである。本当の慰めがどこからくるのか、その結論だけを振りかざすのではなく、それを舌の奥で味わいたい。そんな一年にしたい。

・今年の教会での説教は第二コリントの講解。3日に開いた手紙の出だしが、今年の御言葉となりそうだ。

「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。」—第二コリント1章4節

2016年1月1日金曜日

明けましておめでとうございます。

・新年あけましておめでとうございます。まばらな更新にも関わらず、このブログを読んでくださっている方々がいることに感謝します。これからも、思ったこと、考えたことを、あまり整理せずに書き綴っていこうと思いますので、備忘録的な部分もあり、時には冗長に感じることもあるかとは思いますが、お付き合いいただければ幸いです。

・これから新年礼拝に行ってきます。一年の初め。心新たに、まず礼拝から始めたいと思います。