2015年8月31日月曜日

至る所で

・今日から「コリント人への手紙第一」を、朝のディボーションで読み進めていくことにした。今日は、1章1節~3節。僕は、パウロの手紙の書き出しににじみ出る彼の思いをくみ取るのがすごく好きだ。

・今日の箇所で特に心に留まったのは、2節「私たちの主イエス・キリストの御名を、至る所で呼び求めているすべての人々とともに」という言葉だった。なぜだろうか。

・それは、この夏、自分の教会以外の人と交わることが本当に多かったからだ。それと同時に、自分の教会のことを一番悩み考えた夏でもあるからだ。日本長老教会の青年夏期伝道で、リーダーとして自分の教会に赴き、他教会の青年たちと一緒に自分の教会で奉仕した経験は、間違いなくこの言葉を意識する僕の背後にあるだろう。

・「至る所」という言葉は、散らされているイメージと結びつく。会うことはなかなかない。普段は別の場所で礼拝をささげている。会えないと、孤独を感じたり、心細さを感じたり、仲間はいないんじゃないかと思ったり、この世の流れに押し流されそうになったりする。しかし、そんな私に、パウロは「主は私たちの主であるとともに、そのすべての人々の主です。」と高らかに宣言する。そう、主は場所の空間的制限を受けず、至る所にいる、会いたいけれども会えない、いや、まだ一度も会ったことすらないあの兄弟姉妹にとっても「主」なのだ。そしてその主がそういう主だからこそ、私たちは互いに兄弟姉妹と呼び合うことができるのだ。

・各学校に散らされているキリスト者学生ひとりひとりのことを思う。彼らもまた、至る所にいる。そして、そこで主イエス・キリストの御名を呼び求めている。主は、私たちの主である。父である。私たちを聖徒として召し、歩ませてくださる主は、生きておられる。

・心細さを抱く必要がない理由は、そこにある。一人ぼっちだなと思うとき、私は「主イエス・キリストの御名を、至る所で呼び求めているすべての人々とともに」あるからだ。孤独だなと感じるとき、私は「主イエス・キリストの御名を、至る所で呼び求めているすべての人々とともに」あるからだ。そのことを確信させられ、今日一日を歩んだ。本当に励ましだった。もちろん会うことは力強い励まし。しかし、会わなくても、私たちは「ともにある」のだ。主イエス・キリストによって。

・キャンプを終え、さみしさを覚えることが多い8月の終わり。主事になっても、そのさみしさを覚えることに変わりはない。しかし、そんな時期に、主は御言葉で励ましてくださった。インマヌエルと呼ばれ、実際にこの地に降りてきてくださったイエス・キリストに期待して、9月の歩みを始めたい。

「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)―マタイ1章23節。

0 件のコメント:

コメントを投稿