2016年1月21日木曜日

「どこに行くのかを知らないで出て行く」信仰について

・最近また創世記から聖書を読みなおしている。電車の中など、時間が空いたところで、とにかく読めるところまで読む、というスタイル。毎朝のディボーションはエレミヤ書を読んでいるので、旧約聖書漬けの日々だ。

・その中で、昨日一つの発見があった。それは、僕の中で「なぜアブラムはカナンに向かったのか問題」と呼ばれているものについて、だ。

・創世記12:1-3。「その後、主はアブラムに仰せられた。『あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたの大いなる国民とし、あなたを祝福し…。』」

・この箇所は、いわゆる「アブラハム契約」とも呼ばれるところで、神様がアブラムを「神様に従う、神の民としての歩み」に招き、その祝福を約束してくださっているところだ。非常に有名で、よくメッセージでも語られる。これから後、代々神の民に継承されていく祝福の約束の原点だ。

・この箇所に疑問があった。それはずばり、「わたしの示す地へ行きなさい。」について、だ。

・よく、進路に迷った学生の話を聞くことがある。また、判断や決断を下すときに、迷っている学生の相談を受けることがある。その時、最もよく聞く言葉が「どれが神様の御心かがわからない」というものだ。何かを決める時、御心がわからなくて、決断できない。この感覚は、キリスト者として生きてきたものなら(そしてまじめであればあるほど)、一度は味わったことがあるのではないだろうか。

・そんな私たちにとって、「わたしの示す地へ行きなさい」という言葉だけで、「どこを示されたのか」は一言も言われていない(少なくとも聖書には書いていない)アブラムが、「主のお告げになったとおりに出かけた。」(12:4)、実に驚愕の事実である。どこに出かけたんじゃい。まず、どっちの方角に一歩足を踏み出したんじゃい。それがわからない。他の聖書箇所を見ると、アブラムは「どこに行くのかを知らないで、出て行きました」と書いてある(ヘブル11:8)。これは決定的だ。彼は、どこに行くのかを知らないで、出て行ったのである。なんじゃそりゃ、ということだ。

・そして、わたしは思うのである。「せめて、東西南北は教えてよ」と。どっちの方角に歩みだすかくらい、教えてよ、と。しかし、アブラムは「どこに行くのかを知らないで」、その一歩目を踏み出したのである。すると、彼はどのようにその一歩目の方角を定めたのか、ということが大きな問題になる。これが、「なぜアブラムはカナンに向かったのか問題」である。

・これが、昨日聖書を読んでいて、解けたのである。その答えは創世記11:31にあった。こんなに近くに記されていたのに気が付かなかった僕の聖書を読む目は節穴だったとしか言いようがない。そこにはこう書いてある。「テラは、その息子アブラムと、ハランの子で自分の孫のロトと、息子のアブラムの妻である嫁のサライとを伴い、彼らはカナンの地に行くために、カルデヤ人のウルからいっしょに出かけた。しかし、彼らはカランまで来て、そこに住みついた。

・彼の父テラは、「カナンの地に行くために」、生まれ故郷ウルを出た人だった。そして神様は、アブラムをこう招かれる。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。」そこで、アブラムは、父が生まれ故郷ウルを出、このカランという地に今いる、という「文脈」を理解し、ひとまず、その文脈の中で、カナンを目指したのではないだろうか、というのが、この問題のひとまずの帰結である。

・ポイントは、彼が「自分がどんな文脈の中にいるのかを知っていた」ということである。父テラからずっと聞かされていたのか、はたまた神様に召し出された時にじっくり調べて考えたのか、それはわからないが、少なくとも彼は自分が今どんな文脈の中で生きていて、どんな過去を背負っているのか、ということを確認したはずだ。「父の家を出る」には、「父のことを知る」必要があったし、「父の歩みの意味を再考する」必要があった。それは父や過去を捨てることではなく、むしろそれを背負って生きることだった。

・私たちも「御心がわからない」時に、このステップを踏むべきなのではないだろうか。おみくじ的に、分岐点に立って初めて「右か左か」ということを天を仰いで神様に聞くのではなく、自分がどういう文脈で生きてきているのかを、具体的に調べる、考える。その中で、今まで神様がどのように自分を導かれていて、自分がこれからどういうところに置かれようとしているのかをじーっと考え、祈り求める。その流れの中に自分をおいて、神様の取り扱いの歴史をしっかりと吟味する。こういったことから、私たちは「神様の導きを求める歩み」を考える必要があるのではないだろうか。

・その場で即時的に答えをポン!と与える、ガチャポンのような神様ではなく、天から見守り(父)、隣を歩み(子)、内に住んでくださる(御霊)、本当に私たちと一体になって歩んでくださる神様に、アブラムのように信頼していきたいと思わされた。


2016年1月14日木曜日

祈りについて

・祈り、ということを最近考えさせられている。僕は、今まであまりに祈ってこなかったのではないか。

・祈るには、時間を確保する必要がある。もちろん、歩きながら、信号待ちをしながら、電車に揺られながら、祈ることもできる。しかし、僕はそういう時間、たいてい何か考え事をしているか、心配事をしているかだ。その、いわば「隙間時間」を祈りで埋めていくには、まず大きな時間をしっかり「祈りのために」割き、祈る喜び、祈る醍醐味を味わう必要があると思うのだ。

・僕が最近祈る時に意識しているのは、時間をしっかり確保することと、具体的に祈ることだ。特に、人のために祈る時は、その名前を挙げて、具体的なその人の必要を脳みその限りで考えてる。これはすごく良くて、その恵みはまず自分に返ってくる。

・というのは、誰かのために祈っていたとしても、祈りは僕と神様の関係性の中で起こっていることだからだ。例えばそれは、僕が父親と、僕の親友について話をするようなものだ。それは勿論親友のことを思う時間だし、親友を愛する時間だけれど、その時間を通して僕は父ともまた親密になる。父に今まで話していなかったことを話すことになる。父が僕について、もっと知ってくれる。僕はそこで、親友とより深く愛し合うと同時に、父との愛し合う関係も深めることになるのである。

・改めて、祈りは大切である。それは神様との愛し合う関係を深め、僕たちの周りにいる祈られるべき人々との愛し合う関係をも深めてくれる。そして、祈られるべきでない人など、僕の周りにはひとりもいないのだ。

・具体的に、彼らのことを祈る。一人の部屋で、静まって、「神様。」と呼びかける。見えないけれど、そこに間違いなく神様がいてくださることを確信させられてゆく。僕の場合、このプロセスだけで5分は必要だ。神様が、いる。間違いなく、いる。そのことを確信させられてから祈り始めるとき、僕は今までになかったような平安の中で、祈りをささげることができる。

2016年1月12日火曜日

今ここに生きる

・昨日まで、15同期会の合宿に行ってきた。それは、一緒に大学を卒業したKGKの仲間たちとの再会。各地に散らされつつ、いろんなところで学んだり、働いたりしている仲間たちとの再会だ。

・講師のS子さんは、こう仰った。「今までは共通点で集まっていた同期会。しかし、共通点は確実に減ってゆく。結婚する人しない人。子どもがいる人いない人。仕事の悩みも全然違う。共通点は確実に減ってゆく。」本当にそうだと思った。単純に共通点が多いから、共感できるから、という理由で集まる同期会から、次のステージへの移行が促されている。

・この合宿で、僕は仲間とともに「神様に取り扱われる」という経験をした。夜、僕は死ぬほど喋った。主事という働きの難しさ、葛藤、悩みを、とめどなく一時間以上喋り倒した。みんな、本当に忍耐を持って聞いてくれた。(実際、失望したこともあっただろうし、何より眠くて疲れていて、本当に忍耐が必要だっただろう。)僕は堰を切ったように、自分でも驚くくらいに喋った。次から次へと、心の奥にあるものが流れ出た。叫びが流れ出た。怖いくらいだった。イメージとしては、『千と千尋の神隠し』のオクサレ様だ。

・何も問題は解決しなかった。彼らはただただ聞いてくれた。そして、最後に祈ってくれた。僕もみんなのために祈った。これが同期会なんだなあと思った。神様に取り扱ってもらう経験をするとき、隣にいる仲間。同期会合宿に行って、本当によかったなあと思った瞬間だった。

・S子さんは、こんなことも仰った。「私たちは、過去の失敗を引きずり、未来のことを心配している。そうやって、『今、ここ』という、現在の自分を失ってしまっている。今、自分はどこにいるのか。『今、ここに生きる自分』を取り戻す必要があります。」

・働き初めて3か月目、6月のブログを読んだ。そこには、学校訪問をする喜びに溢れ感謝している自分の言葉があった。今、ここに生きる時、そこに溢れる恵みに目が向く。自分の内面を振り返り、味わうことも確かに必要だけれど、今、自分に間違いなく注がれ続けている神様の恵みを味わうことを止めてはならないし、その自分を取り戻さなければならないと、強く思った。

・同期会合宿に行って、僕は心の奥にある叫びを大声で叫び切った。そして、今ここに生きる自分を失っていたことに気付き、ほんのちょっと、その自分を取り戻し始めた。今日注がれる主の恵みに目を向けて、今日もまた、歩もうと思う。

2016年1月8日金曜日

苦しみと慰め

・2016年のキーワードは「苦しみと慰め」になりそうだ。

・主事という働きは勿論、僕にとってキリスト者としてこの地上での歩む中で、「慰め」という言葉がキーワードであることは間違いない。それは、単純な意味で二つに分割することができる。「僕にとっての慰め」と、「あなたにとっての慰め」である。この二つのテーマについて、今年は特に考えてゆきたい。

・僕にとっての慰めとは何だろうか。僕は何に慰められているだろうか。逆に、僕は何がないと傷つくのだろうか。この問いは、なかなかに鋭く心の深層にまで手を伸ばしてくる。それは普段僕の意識に及ばない、認識のグレーゾーンまで届いてくる問いである。しかし、そこまで脳みそをぐいっと引っ張り込んであげないと、見えない世界の価値観がある。そしてそこはいつか取り扱わなければならない領域である。なぜなら、そこの世界の価値観が、僕の実際の歩みを規定する力を持っているからである。改めて、僕にとっての慰めとは、何だろうか。

・あなたにとっての慰めとは何だろうか。あなたは何に慰められているだろうか。僕がどうすることがあなたを本当の意味で慰めることになるだろうか。この問いは、またちょっと性質の違う問いである。ポイントは、その問いが「あなた」と呼ばれる他者の認識のグレーゾーンまで届く問いであることだ。人の慰めになるとはどういうことだろうか。人を本当の意味で慰めるものとは何なのだろうか。同情か、共感か、解決策か。励ましか、寄り添いか。楽観か、悲観か。改めて、あなたにとっての慰めとは、何だろうか。

・慰めと苦しみには関係がある。これは間違いないことだと言っていいだろう。慰めを必要とするのは、多かれ少なかれ苦しみの内にあるときである。本当の慰めがどこからくるのか、その結論だけを振りかざすのではなく、それを舌の奥で味わいたい。そんな一年にしたい。

・今年の教会での説教は第二コリントの講解。3日に開いた手紙の出だしが、今年の御言葉となりそうだ。

「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。」—第二コリント1章4節

2016年1月1日金曜日

明けましておめでとうございます。

・新年あけましておめでとうございます。まばらな更新にも関わらず、このブログを読んでくださっている方々がいることに感謝します。これからも、思ったこと、考えたことを、あまり整理せずに書き綴っていこうと思いますので、備忘録的な部分もあり、時には冗長に感じることもあるかとは思いますが、お付き合いいただければ幸いです。

・これから新年礼拝に行ってきます。一年の初め。心新たに、まず礼拝から始めたいと思います。