2015年6月25日木曜日

議員要請から考えるキリスト者と政治

6/25(木)

・議員要請に行ってきた。議員会館で祈り、議員の部屋まで行き、要請文を渡す。目を見て、声を届ける。そんな営みだ。

・すごく緊張した。一つのハッキリとした意見(安保法制法案の廃案)を「要請」という形でぶつけることに、正直すごく迷いがあったし、逃げたくなる思いがあった。でも、そこは曖昧にはできない。ちゃんとハッキリと言わねばならない。

・何故、ハッキリと言いたくないのか。それは、嫌われるのが怖いからだ。批判されるのが怖いからだ。人に嫌われず、批判されず、みんなに認められたいという思いが僕の心に根深くあるのだ。それは、甘えだし、逃げだ。だって、自分の中で、今の時点での答えは出ているのだから。

・「戦争するための法律ではないですから。」とある秘書の方は言っておられた。確かに、そうとも言えるだろう。でも、大事なのは、その法律の「方向性」であると思う。その法律が、どのベクトルを指し示しているか、という話だ。そう考えると、今回の安保法制法案は、今まで「NO」だった戦場が「YES」になることだと言える。今まで「NO」だった行為が「YES」になることだと言える。

・僕は、キリスト者として、究極的に「全部NO」を求めたいと思う。平和って、そういうことだと思う。「武器があって、兵力があって、それで平和」というのは、あり得ないと思う。この、究極的平和をゴール(終末、完成)に見据えて今の法案ひとつひとつを考える、という視点が私たちには欠かせないと思う。

・「そんなの現実的じゃない」「実際の脅威にどう対応するんだ」「実現しようがない、現実離れしてる」....そういう声に押されそうになるけれど、そこで心折らず、諦めず、究極的平和を語り、目指し続けること。「殺してはならない」「あなたの隣人のものを、欲しがってはならない」という言葉が、十戒にはある。僕はこれが、戦争を禁じていると思うし、究極的平和を目指す上で、完成を目指す上で、忘れてはならないことだと思う。その意味で、「全部NO」を目指している僕にとって、「YES」が確実に増えるような法案は、悪法と言わざるを得ない。

・その法案のベクトルを見極めることが、私たちには求められている。この法案は、神の国を建設するものだろうか、神の都建設を向いたものだろうか。この問いを持ち続けるものでありたいと強く思う。それが、僕の判断基準になる。

・「学生に対して指導的な立場にある主事が、そうやって一つの政治思想を持って言動するのは如何なものか」という問いは、外からも来るし、現実、僕の内側からも常に湧いている。確かに、「法案に反対/賛成するのがキリスト者として正しいんだからそうしなさい。そうしないのは罪だ。」などとは、口が裂けても言えないと思う。この問いを受け、動揺し、揺さぶられる自分がいる。葛藤している自分がいる。

・でも、同時にこう思う。僕は、一つの政治思想を広め、それで学生や友達を統一しようなどとは思っていない。こう考えるべき、という「べき論」で進めるものではないとも思っている。様々な答え、応答があっていいと思っている。大切なのは、その答えを「どのように」出したのかということだと思う。そのときに、法案のベクトルを神の国建設という視点で見直し考え直す経験は、欠かせないと思う。政治は政治、信仰は信仰、と分けられるものではないから。

・みんながこういうから。あの主事がこういってたから。Facebookでこういう雰囲気だから。そういう理由で答えを出すのではなく、本当にその法案が神様の喜ばれる法案なのかをじっくり、信仰の事柄として、問うて問うて問い続けたい。自分の脳みそで精一杯考えて、間違った時は素直に「ごめんなさい」を言いたい。そういう意味で、僕はいつも自分は間違っているかもと思わねばならない。

・でも、行動し続ける。おかしいと思うから、ベクトルが逆を向いていると思うから、神様の国を建てあげる法案ではないと思うから、僕は安保法制法案の廃案を求める。それが、「今の僕」の、信仰の決断だから。

・また、行動するところに体験があり、体験があるところに気づきがある。気づきは人を変える。間違いに敏感になる。だから僕は、丁寧に、行動することを続けたいと思っている。

0 件のコメント:

コメントを投稿