2015年7月23日木曜日

友達とはなにか

・最近考えていること。それは、友達とは何かということ。思えば、中学生の時に一度このテーマにぶち当たって、底なしの悩みにはまり込んだ記憶がある。自分は彼にとって何番目の友達か。そんなランク付けが自分を揺さぶって、不安と猜疑心に心が埋まった。

・改めて、友達とは何だろうか。友情とは何だろうか。それを考えるとき、僕はいつも『僕』が主役になっている。僕にとっていい友達とは。僕を大切にしてくれる友達とは。僕を受け入れてくれる友達とは。僕が何でも話せる友達とは。僕を慕ってくれる友達とは。僕が追い求めている友達は、『友達』の一部分でしかない気がしてきた。

・友達とは何だろうか。それは、人間関係である。しかも、かなり広汎な人間関係を指している。それは僕が君をどう思っているかという世界と、君が僕をどう思っているかという世界とに分割される、と考えられがちだ。しかし、その考え方は、友達という関係を理解するときに妨げになる。ということに最近気付き始めた。

・君にとって僕がどんな存在であり得るか。この問いは、『友情』という事柄の中心を掴んだ問いであるように思う。僕にとって君が、ではなく、君が僕をどう思うか、でもなく、『君にとって、僕が』という問い。その問いを純化させていく営みが、愛するということなのではないだろうか。

・僕は友達が欲しい。なら、僕が友達になればいい。友達はできるものではないし、作るものでもない。なるものである。ならせていただくもの、と言ってもいいかもしれない。自分本位ではなく、相手本位で考える。その道に、イエス様の歩みを見る。いつも私たちに本当のことを教えてくれるのは、イエス様だ。

・隣人を、自分自身のように愛する。この一言が、全てを包んでいる。神と人とに仕える生き方を、今日も問い続けたい。

2015年7月15日水曜日

忘れるな

・今日は、一日中胸がざわついている。安保法制に関する情報が四六時中入ってくる。仕事中も、休憩中も、気になってしまう。予想通り、特別委員会で採決。予想通り、だ。

・明日の必要を考えれば、確かに、この法案は有効に見えるかもしれない。だが、この法案が、一個の出来事として起こっているのではなく、十年以上にわたって脈々と続いてきた一つの流れの中で起こっていることであることを私たちは忘れてはならない。

・私たちは過去を忘れようとする。思えば、安倍総理は「経済」で選挙に勝った。見てみろ。経済はよくなるどころか悪くなる。気づくと論点は安全保障で、こんなにも大胆な、国家としての在り方を本質から変えるようなことを「閣議決定」という形で少しずつ確実にして、ついにやってのけようとしているのだ。

・忘れてはならない。これがあの「経済」で国民の票を集めた彼らの本当にしたかったことだ。このことを忘れてはならない。次の選挙の時まで、次に投票するあの瞬間まで、僕たちはこのリアリティーを忘れてはならない。一時の感情にしてはならない。

・今日の朝日。いつもと変わらず、哀しいくらい美しかった。明日もおんなじ朝が来る。僕らはそう信じて生きている。そう、明日はまるで今日とおんなじであるかのようにみえる。「見える」だけ。そうやって、時代は進んでいく、政治は変わっていく、戦争が始まっていく。愛する人が死んでいく。自分も人を殺す日が来る。そういう想像力、記憶力、僕たちは、持ち続けたいと思うんだ。

2015年7月13日月曜日

夕方に思うこと

・主事を始めて、夕方に出かけることが増えた。今まではあり得なかったことなので、新鮮で、色々新しさを感じることが多い。

・夕方に出かけると、帰宅途中の小学生や、買い物帰りの主婦とすれ違うことが多い。すると、自然と『家庭』について思い巡らすことに導かれる。

・『家庭』について思い巡らすと、往々にして『幸せ』ということについても思い巡らすことになる。家庭に、幸せ観を見る。結婚、夫婦、親子、子育て、学校、仕事、そこから出発して、そこに帰ってくる。家庭は、人生のすべてのテーマの出発点であり、帰着点のような気がする。

・夕方に出かけると、季節を感じる。初夏特有の涼しい風は、いつも夕方に吹いている気がする。懐かしい気持ちになったり、切ない気持ちになったり、そういう繊細な心の動きに、敏感になる。夕焼けに、哀愁を感じる。

・幸せとは何か。大事なテーマだと思う。そして、そこに『造られた私』という被造物としての人間理解を携えて取り組むとき、創造主なる神様の懐に憩う平安を見る。ゆっくり過ぎていく時間の中で、思い巡らす夕方を大切にしたい。

2015年7月10日金曜日

渇き

・御茶ノ水から帰ってくる。立川に着く。電車を降りる。階段を探し、そちらへ向かおうとする。後ろから押してくる人、横から押してくる人がいる。自分もその勢いで前にいる人を押してしまう。睨まれる。僕も後ろを睨まないように見る。かかとを踏まれる。思わず舌打ちをしてしまう。

・人がこんなに密集してモゾモゾ動いているのは、不自然だなぁと思う。どこで働いているかも知らないおじさんや、どんな食べ物が好きかも知らないお兄さん、趣味すら知らないおばあちゃんと、こんなに密着して、押し合っているなんて、やっぱり何かおかしい。第一、すごく疲れる。

・体は限りなく近いのに、心は限りなく遠い。名前も歳も、その人についてのことは何一つ知らない。知っているのは、歪んだ顔だけだ。

・その人にも、笑顔があるはずだ。その人にも、ストーリーがあるはずだ。その人にも、愛する人がいるはずだ。そう思うだけで、ほんのちょっと、ほんの一瞬、心は安らぐ。

・けれどもかかとを踏まれると、そんなものはどこかに吹っ飛んでしまう。相手を、人というより、邪魔なところに置いてあるタンスくらいに思っている自分がいる。蹴飛ばしたくなるのは、人じゃなくて、モノと思っている証拠だ。

・イエス様が満員電車に乗ったら、どうしただろう。きっと、彼らの渇いた心を潤しただろう。いや、その彼らには、僕もしっかり入ってるハズだ。そう思ったら、「神様、僕の心の渇きを潤してください。」と、お祈りしていた。

・「あなたがたは喜びながら救いの泉から水を汲む。」イザヤ12:3

・救いの泉から、水を汲み続けたい。なんだか、とても喉が乾く、夏の夜だ。

2015年7月3日金曜日

聖化についての考察

ウェストミンスター信仰告白14.2
「…救拯的信仰の主な行為は、義認と成果と永遠の命のため、恵みの契約に基づいて、ただキリストのみを認め、受け入れ、寄り頼むことである。」

・救拯的信仰とは、救いを得させる信仰のこと。その行為は、「キリストのみを認め、受け入れ、寄り頼むことである」と、ウェストミンスター信仰告白はいう。このことは非常に重要だ。この文言によって、「救いは完全に神の恵み」ということと「救いにおける人間の行為」という、一見相反する二つの事柄が交じり合うからだ。

・最近の僕のテーマは、「聖化」。聖なるものにされていくとはどういうことなのか、ということだ。聖書では、救われた私たちは「キリストに似せられていく」と約束されている。しかし、実際の生活は変わっていない気がする。この矛盾を、どう捉えればいいのか。

・まず、私たちが立ちたいのは、私たちがキリストによって贖われて、義とされているという地点である。そこを疑わず、信じるところから始まりたい。すると、次の文言が非常に力強くまた現実的な響きを持ち始める。

ウェストミンスター信仰告白13.3
「この戦い(腐敗の残部と聖化の戦い)において、残っている腐敗が、一時、大いに優勢になることもあるが、それでもキリストの聖化のみたまからくる継続的な力の補給によって、再生の側が勝利を得る。それで聖徒たちは、恵みに成長し、神を恐れて聖潔を完成して行く。」

・私たちは、存在、人格、行い、全てにおいて堕落している。そして、それら全てを覆う義の衣として、キリストを着せられている。その事実が、私たちを聖化の道に歩ませてくれる。福音主義は、律法主義の対義語であると僕は思う。イエスキリストの福音によって、贖われたということ。イエスキリストのみを認め、受け入れ、寄り頼むことから始める一歩は必ず祝福され守られると信じる。

2015年7月1日水曜日

新しい月

・一昨日くらいから、足に変な痛みがある。太ももの裏の皮膚がヒリヒリしたり、足の指先がジンジンしたり、チクチクしたり。そんなにしょっちゅうなるものでもないのでちょっと嫌な感じ。

・3つあった口内炎はやっと終わりを迎えてきた。長かった。口内炎て、何でこんなに辛いんだろう。

・今日は雨。雨の匂いは決して嫌いじゃない。砂埃の舞うようなバタバタした日々の中で、雨が降るとちょっと落ち着いて、静まる時が与えられる。これもまた、神様のなせることか、と。

・ただ、低気圧のせいで体調がおかしくなったりはよくするので、それだけは少ししんどい。そんな思いで、新しい月が始まった。