2016年4月27日水曜日

小骨

・この一年間、抱え続けてきた思いがある。言葉にならず、胸に疼いていたものがある。思えばなかなか消えない不全感も、自分はダメな主事なんじゃないかという不安も、根底にはその疼きがあったのかもしれない。

・その疼きが今日、とある先輩との交わりの中で言葉になった。それは、『もしかしたら、僕はとてつもなく自己中心で冷酷な、他者への関心のない人間なのではないだろうか?僕は、自分こそが一番正しいという絶望的な傲慢さを持つ、他者への尊敬のない人間なのではないだろうか?』という問いであった。

・思えば、この問いはいつも魚の小骨のように僕の心に刺さっていた。学生と向き合う時、主事のミーティングに出る時、青年キャンプで準備の打ち合わせをする時、目上の人と一緒に仕事をする時……。この一年間、色々な場面で僕は疲れた。もう嫌だと思った。しかし、その原因は僕にはないと思っていた。だから、なんで上手くいかないのか、モヤモヤと悩んだし、答えが出なかった。だからその原因を、環境や自分の体調などに勝手に寄せ上げていた。

・しかし、1つのことに気づいた。僕は関わっている全ての環境で、共通する課題を抱えていた。それは、人のことを大切にできず、敬意をもって接することができないということだった。人に関心をもつことができず、その人を尊敬できないということだった。気が合う合わないの問題ではない。誰に対しても、僕は関心と敬意のない関わり方をしてきていた。それが現象として現れるかどうかは、あくまでその相手が寛容に僕を気遣ってくれているか否か、ということだけの話だった。

・僕は、人のことを大切にできていない。僕は、自分が大好きで、自分が中心で、自分が良ければよい、そう思っているのだ。僕は極めて冷酷で、人に関心がない。僕は、目上の人に心から敬意を払うことが苦手だ。なぜなら、自分が一番正しいと心のどこかで強く思っているからだ。

・『そんなことないよ。』たいていの友達は、そう言って励ましてくれる。そうか、そんなことないか、僕は優しくて、人のことをちゃんと尊敬しているか。そうか、そうか……。今までは、そうやってのらりくらり、寛容で優しい友達の言葉に身を任せて乗り切ってきた。しかし今日、先輩はこういった。『自分のこと暖かい奴だって思ってる方がよっぽど胡散臭い。本当の俺らは、自己中心で、冷酷なんだよ。』

・そうか、僕はそのことを心のどこかでわかりながら、認められずにいたんだ。それが心で疼きとなり、ズキズキしていたのだ。『本当の俺らは、自己中心で、冷酷なんだよ。』……。その言葉は、認めるには苦しい、悔しい、苦々しい言葉だったけれど、飲み込んだその時、小骨が取れる思いがした。

2016年4月24日日曜日

神の義

・最近ある友人と話していて思ったことだ。僕は、自分自身のことを「正しく」評価できているのだろうか。

・僕はある人を尊敬している。(もちろん一人ではない。)そして、その人がいうことが、時に僕の考えや思想とは相反すると感じる。それは極めて健全なコミュニケーションとして進み、僕はそれを通して自分は間違っていたとか、自分が偏狭なものの見方をしていたとか、そういうことに気付く。そしてそのプロセスに「成長」という名前を記念碑的につける。

・一方で、僕はある人と話していて、「それは違うだろう」と思うことがある。その考えの組み立て方、思考の経路は、どこかでミスを含んでいると。もしくは、落としている重要なキーポイントがあると。そして(それを指摘するか否かは別として)その人からは、その時の会話からは学び取らないという選択をすることがある。その時の自分は、「成長する」自分ではなく、「成長した」自分である。少なくとも自覚的には。

・こういったやり取りの中で、ふとそういう「自分」は何者なのかという問いが浮んでくる。何かに正しいとか間違っているとかそういう判断を下して生きている自分である。何かを受け入れ何かを拒否している自分である。その自分は果たして本当に「正しい」のだろうか。

・そもそも、本当の「正しさ」を探すことは本当に難しい。そうだ、それは創造主なる神にある。聖書はそれを「正義」と呼ぶ。そして、創造主なる神にこそその正義があり、創造主なる神にのみ、その正義があるという。そしてこう告げる。「神の国とその義をまず第一とするとき、全てが与えられる。」

・神の義とは何だ。神の義をわが義とする生き方とは何だ。そこにある絶対性への畏敬を抱えながら、僕は「自分とは誰なのか」という問いを片手に、「神の義」という言葉を反芻する。

2016年4月20日水曜日

あるから

・九州の地震のニュースを見る。いてもたってもいられなくなる。まず現地に行かねばと思わせる、熱く迫ってくるものがある。と同時に、行っても役に立たない、邪魔になるだけだという冷静な自分もそこにいる。この揺らぎ、心の締め付けられるような感覚が、ずっとある日々だ。

・僕ができることは一体なんなのだろうと自問する。自分はどうしてこんなにも迫られているのかと、呼吸が苦しくなるほど想うのかと、自問する。自問し続けるうちに、そこには完全にピュアだとは言い切れない自己顕示欲や、無関心だと思われたくないという苦々しい自己嫌悪が、不気味に静かに、しかし確かにあることに気付かされていく。僕を駆り立てる衝動のような思いに、平安がないのはそういうことか。

・いいことをすることと、本当に「いい」ということは、似て非なるものである。そして、こういう時、まるで攻め立てられているような感覚に陥らせるものが、SNSやネットにはあふれているように思う。誰も悪くない、しかし確実に蝕まれている心があるように思う。少なくとも僕の心は疲弊している。こんなときだからこそ、僕は考えたい。今僕はどこにいるのか。

・目の前にあることを、精一杯。月並みなことだ。そして今のところ僕は消去法でしかここにたどりつくことができなかった。なんとも無念。惨めである。しかし、目の前に確かに「ある」ものが「ある」から、僕は明日も家を出かけ、言葉を語り、人の話を聞く。明日も生きるつもりだ。何かに追われているような、そんなジメッとした感覚を背中に感じながら。

2016年4月12日火曜日

新年度のブロック祈祷会へ

・今日は、今年度初のブロック祈祷会。多摩地域の学生が集まり、ともに御言葉を開き、祈る。また、毎月のこの営みが始まろうとしている。

・今年度は、「主の祈り」を一年間かけて学ぼうと思っている。祈り会が基本に据えられる学内活動。こうしたブロックでの集まりも、中心は「祈り」だ。しかし、実は私たちは心の奥底で知っている。自分がいかに祈りに貧しいものであるかを。

・そんな自分の祈りの貧しさを否定するのではなく、認め、謙虚に祈りの大切さを学びたい。そんな思いをもって、今年度はこの箇所を説き明かす。たった数節だが、私たちの信仰の歩みを刷新する箇所だと信じる。祈りが変わるとき、信仰の歩みが変わる。そう信じて、丁寧に講解していきたい。

2016年4月7日木曜日

気づけば新年度

・気づけば新年度。このブログも2月以降更新していなかった。怒涛の2-3月だった。ブログを備忘録として書いていきたいのだが、どうしても忙しいと優先度が落ちてしまう。今月から、また気合いを入れなおしてしっかり記録していきたい。

・思ったことや考えたことの記録を残すことは、自分にとってとても大切なことである。言葉化の作業を通して、自分を客観的に見る材料を作り出す。自分を客観的に見るためには、逆説的だが、主観的な言葉をしっかり紡ぐことができるかどうかということが問われる。自分はこう思っているということをしっかり言葉にすることで、その言葉を読むときに、私の率直な思いを、客観的に見ることができるようになる。そうやって自分の歩みを定点観測していくのが、自分にとっては最もやり易いようだ。

・ブログだけでなく、手で書くノートもまた自分にとっては重要である。手書きのノートがこの一年間で数冊増えた。思索ノート、日記ノート、感謝ノート、祈りノート、聖書ノート、ビジョンノート。これらのノートに綴った思いや感謝は、決して色あせることなく、大事な自分の一部になっている。

・記録ということを改めて考える。基本的にそれは人に見せるためのものではない。あくまで自分に向けられたものである。しかし、ブログは少し異なる。それは不特定多数が読むものである。ということを考えると、果たしてこのブログがどのくらい益となるものとなっているのか甚だ疑問ではあるが。…まあ、今年一年も、主事として、また一人の人としての苦悶と感謝の歴史を、ここに綴っていければと思っている。