2015年12月11日金曜日

待降節、痛みの中で

「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。」
―コロサイ3:15


・この言葉が、何度も心を巡る。キリストの平和が、僕の心を支配してくれることを心の底から願う。そしてそれは、僕の心が本当にざわついている証拠でもある。

・どんな時に心がざわつくのか。それは、心の傷に何かが触れたとき。そういうとき、僕は攻撃的になる。まるで何かを必死に守るかのようにムキになる。それは巣を守る蟻のように慌てふためく姿。

・その根底には、恐怖がある。自信のなさがある。これでいいのだろうかという不安がある。だからこそ、怖くなる。指摘されると、そこが疼く。図星だから、ムキになる、感情がむき出しになる。そんな自分が到底受け入れられなくて、泣き寝入りする。けれど、まったく眠くない。眠れない。

・最近太宰治を読む。響くものを感じる。人間の一つの真の姿があそこにまっすぐ描かれているように思う。だから、ちょっと安心すらする。けれど、そこに平安はないし、ましてや解決などない。あるのは絶望、混沌、闇である。一寸先とは言わない。もう、そこが、闇だ。


「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。」
―ヨハネ1:9

・待降節、と呼ばれるこの季節。降誕を待つ季節、だ。降誕。そう、主イエスは「降りて」「誕生」された。すべての人を照らす光。まことの光。世にこようとしていた。その世は、まさに闇である。


「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」
―ヨハネ1:4

・「主イエスよ、来てください。」という言葉で、聖書は終わってゆく。この祈りを、いや、叫びを、僕はこの季節、『斜陽』片手に祈りたい。主イエスよ、来てください。私の心の傷に、この世の闇に、私の心の疼きに、この世の痛みに、主イエスよ、来てください。


「『しかり。わたしはすぐに来る。』アーメン。主イエスよ、来てください。」
―黙示録22:20

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