2015年9月7日月曜日

川の流れのように

「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。―主の御告げ。―それはわざわいではなくて、平安を与えるための計画であり、あなたに将来と希望を与えるためのものだ。」
エレミヤ書29章11節

・神様を信じて生きていると、「神様の導き」という言葉を口にしたり、実際に求めたりする。自分がこれからどういう歩みをしていくのか、どこに向かっていくのか。そのための道しるべを求めて、「神様のお導きが…」と祈るのだ。

・一方で、自分の人生、結局選択し決断するのは自分の脳みそと経験だ、という思いもある。自分が選ばなければ、歩みは進んでいかない。神様の導きというものは、何もエスカレーターに乗っているような、立ったままで気づいたら次の階へ、というようなものではないようだ。

・そこで、出てくるのは「神様の御心を選べるか」ということだ。目の前に分かれ道。どちらかの道が神様の導きで、どちらかは、違う。そんな感覚、案外誰にでもあるのではないだろうか。どちらが正しいのか、ということだ。これは判断基準をさまざまなものに当てはめれば、おそらくほとんどの人生の選択と決断において誰しもが味わう感覚だろう。そこで、「神様の御心を選ぶ」ということを、真剣に悩むようになる。しかし、一方で、神様の御心が、そんな二者択一的な冷たいものではないはずだという思いもある…。

・最近、僕が感じているのは、神様の導きは、川の流れのようなもので、自分はそこを泳ぐ魚のようだということだ。神様の御心には、川が山から海へ、上流から下流へと流れているように、確固たる、変わることのない一つのベクトルがある。そして、僕(魚)は、その流れの中を泳いでいるのだ。こっちかな、こっちかなと試行錯誤しながら、大きな神様の御思いの流れに乗っている。

・時には川を遡りたくなるときもある。流れに逆らって泳ぐとき、体力を使う。そして、少しずつ、少しずつ、川の流れに促されて、方向を転換していく。神様の御心、御思いの流れる方向と、自分が泳ぐ方向が、少しずつ重なっていくような感覚だ。これが、「取り扱われる」ということだろう。

・何があっても、神様の川の流れの方向は変わらない。時には水しぶきが飛び散るような激しい流れだろう。時には動いているかもわからないような緩やかな流れだろう。しかし、間違いなく海へ、将来と希望を与えてくれる海へ、御心の川は流れている。僕はその流れの方向をいつも全身で感じながら、そしてときに異なる方向へ泳ごうと頑張りながら、優しい流れに促され、少しずつ少しずつ、神様の偉大な、そして圧倒的な愛に満ちた、川の流れの中で、取り扱われていく。それが、僕の人生なのだろうと思う。

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