2015年6月30日火曜日

本厚木で

・今日は夕方までOCCで働き、夜は本厚木へ、学生と会いに。学校に入れないため、学校のそばのカフェで一緒に祈る約束をした。「学内活動をしたい」という強い思いが、こうやって実を結んでゆく。

・「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。」ピリピ1:6

・この文脈において、「良い働き」とは、限定的に読めば「献金」を指すという。しかし、パウロが「献金」といわず「良い働き(KJV; Good work)」と言ったのは、私たちのうちに始められる良い働きは、すべて背後に神様の憐れみに満ちた召しがあり、その背後には本当に一方的な恵みによる救いがあるからであろう。献金に限らない、すべての「良い働き」は、主によって始められ、間違いなく完成に向かっているのである。

・今日から始まる本厚木での祈り会。この「良い働き」を、神様が完成させてくださることを堅く信じたい。この祈り会の「完成」とは何かを、じっくり考えながら、朝の中央線に揺られている。

2015年6月29日月曜日

人生を神の目で

・今日からまた新しい1週間。今週の予定はこんな感じです。

月 KGK Open Seminar / OCC
火 OCC / A木看護訪問
水 研修 / 祈り会 / OCC
木 静思の日
金 C央大・T海大訪問
土 合同委員会 / ライブ

・しばらくはなかなか忙しいが、7月末に1週間休暇をとる予定なので、そこまではちょっと頑張りたい。

・昨日の夜、「The Prince of Egypt」を久しぶりに見た。出エジプトの物語のアニメで、モーセの誕生から、エジプトからヘブル人がモーセに率いられて出て行くまでの物語がとても生き生きと描かれている。モーセとラメセス(エジプト王)の葛藤に満ちたやり取りがすごく印象的で、モーセの苦しみや悲しみがよく描かれている作品。サウンドトラックもすごく良くて、おすすめだ。

・作品の中で、「人生を神の目で見つめよう」という言葉があった。目の前にあるひとつひとつの出来事の意味を、神様の目で見つめて歩む。今週もそういう思いで、みことばと祈りによって歩みたい。

2015年6月25日木曜日

議員要請から考えるキリスト者と政治

6/25(木)

・議員要請に行ってきた。議員会館で祈り、議員の部屋まで行き、要請文を渡す。目を見て、声を届ける。そんな営みだ。

・すごく緊張した。一つのハッキリとした意見(安保法制法案の廃案)を「要請」という形でぶつけることに、正直すごく迷いがあったし、逃げたくなる思いがあった。でも、そこは曖昧にはできない。ちゃんとハッキリと言わねばならない。

・何故、ハッキリと言いたくないのか。それは、嫌われるのが怖いからだ。批判されるのが怖いからだ。人に嫌われず、批判されず、みんなに認められたいという思いが僕の心に根深くあるのだ。それは、甘えだし、逃げだ。だって、自分の中で、今の時点での答えは出ているのだから。

・「戦争するための法律ではないですから。」とある秘書の方は言っておられた。確かに、そうとも言えるだろう。でも、大事なのは、その法律の「方向性」であると思う。その法律が、どのベクトルを指し示しているか、という話だ。そう考えると、今回の安保法制法案は、今まで「NO」だった戦場が「YES」になることだと言える。今まで「NO」だった行為が「YES」になることだと言える。

・僕は、キリスト者として、究極的に「全部NO」を求めたいと思う。平和って、そういうことだと思う。「武器があって、兵力があって、それで平和」というのは、あり得ないと思う。この、究極的平和をゴール(終末、完成)に見据えて今の法案ひとつひとつを考える、という視点が私たちには欠かせないと思う。

・「そんなの現実的じゃない」「実際の脅威にどう対応するんだ」「実現しようがない、現実離れしてる」....そういう声に押されそうになるけれど、そこで心折らず、諦めず、究極的平和を語り、目指し続けること。「殺してはならない」「あなたの隣人のものを、欲しがってはならない」という言葉が、十戒にはある。僕はこれが、戦争を禁じていると思うし、究極的平和を目指す上で、完成を目指す上で、忘れてはならないことだと思う。その意味で、「全部NO」を目指している僕にとって、「YES」が確実に増えるような法案は、悪法と言わざるを得ない。

・その法案のベクトルを見極めることが、私たちには求められている。この法案は、神の国を建設するものだろうか、神の都建設を向いたものだろうか。この問いを持ち続けるものでありたいと強く思う。それが、僕の判断基準になる。

・「学生に対して指導的な立場にある主事が、そうやって一つの政治思想を持って言動するのは如何なものか」という問いは、外からも来るし、現実、僕の内側からも常に湧いている。確かに、「法案に反対/賛成するのがキリスト者として正しいんだからそうしなさい。そうしないのは罪だ。」などとは、口が裂けても言えないと思う。この問いを受け、動揺し、揺さぶられる自分がいる。葛藤している自分がいる。

・でも、同時にこう思う。僕は、一つの政治思想を広め、それで学生や友達を統一しようなどとは思っていない。こう考えるべき、という「べき論」で進めるものではないとも思っている。様々な答え、応答があっていいと思っている。大切なのは、その答えを「どのように」出したのかということだと思う。そのときに、法案のベクトルを神の国建設という視点で見直し考え直す経験は、欠かせないと思う。政治は政治、信仰は信仰、と分けられるものではないから。

・みんながこういうから。あの主事がこういってたから。Facebookでこういう雰囲気だから。そういう理由で答えを出すのではなく、本当にその法案が神様の喜ばれる法案なのかをじっくり、信仰の事柄として、問うて問うて問い続けたい。自分の脳みそで精一杯考えて、間違った時は素直に「ごめんなさい」を言いたい。そういう意味で、僕はいつも自分は間違っているかもと思わねばならない。

・でも、行動し続ける。おかしいと思うから、ベクトルが逆を向いていると思うから、神様の国を建てあげる法案ではないと思うから、僕は安保法制法案の廃案を求める。それが、「今の僕」の、信仰の決断だから。

・また、行動するところに体験があり、体験があるところに気づきがある。気づきは人を変える。間違いに敏感になる。だから僕は、丁寧に、行動することを続けたいと思っている。

2015年6月23日火曜日

柏木哲夫講演会

6/23(火)

・色々なことを考え詰めると、時にフッと全てを放り出したくなることがある。頭ではわかっていても仕方ない。湧いてくる感情や、感情すらも超えた「魂」における感覚が、自分を突き動かす。魂は、心や感情の奥にある。そんなことを思わされている。

・そんなことを思うきっかけは、柏木哲夫先生の講演を聞いたこと。日本におけるホスピスの第一人者で、「死」という事柄を、思索し続けているお方だ。

・彼はこう言われた。「人は死んでいく力を持っている。」また、こうも言われた。「死は生の先にあるのではなく、生の裏側にいつもあるのだ。」

・人は死ぬものとして生きている。死ぬとき、人は魂と向き合うことになる。魂の渇き、魂の叫び、魂の納得。人の核の核には、魂が脈打っているということを思い出す講演だった。

・「自分の魂は今、どんな様相をしているだろうか。」国分寺駅に溢れる人ごみに揉まれながら、言葉になり得ない疲れを感じつつ、そんな問いを反芻し続けている。



2015年6月20日土曜日

今朝の出来事

6/20(土)

・今日の朝の電車の中での出来事。ドア脇に立っていたら、あるおばさんが乗ってくるなり「あんたみたいにずっと乗ってる人がそういうとこに立ってるのは本当に非常識なのよ、わかる?」とまくし立ててくる。思わず「…はあ?」と言って思いっきりにらみつけてしまう。なんだこいつ、と。「あんたみたいにそうやって長い間乗る人がそこを占領するから私みたいな年寄りは大変な思いするわけ。わかる?文化と世代の違いだからわからないかしら。本当に非常識なことよ。ほんと迷惑だし、ね。あんた。」とまくし立て続けるおばさん。「…すんませんでした。どうぞ。」必死で怒りを抑え、でも抑えきれず、これでもかとにらみつけながら、そのスペースを譲る。「あら、譲ってくれるの?ありがと、私こう見えても80のくそばばあですから!!」となぜか語気を荒げるおばさん。その一言に、僕も限界。「あのね、おばさん。そういう言い方はないんじゃないですか。そういう言い方されるとこっちもすげえ腹が立つんですけど。」「あらそ、腹が立つのはそっちの勝手だけど、まあこの喋り方はもう育ちの問題だから、もし不愉快にさせたのならそこは謝るわ、ごめんなさいね、でも仕方ないことだしそれは文化と世代の違いだから。」と、一ミリも謝る気のないわけのわからない謝罪。しまいには僕は一歩も歩いてないのに「歩きスマホ」について説教をされる。このころから僕は「このくそばばあ」と言いたくなる気持ちを必死で抑えていたが、次の駅で止まるやいなや、もう我慢できないと思い、車両を変えた。「あら、こんなすぐ下りるのね、だったらよかったわ」というわけのわからない一言が、背中に届いたのを振り切って。

・吉祥寺の駅の階段を下りながら、僕はそのおばさんへの怒りをぶつぶつ口汚く吐き出していた。でも、一向に気持ちはすっきりしない。それどころか、どんどんもやもやしていく。そして、気付く。「僕は、こんな程度のとばっちりに対して、ここまで腹を立て、どうにかして相手を論破し、自分が正しいのだから一言嫌味をいうくらいの権利はある、くらいに考えている。でもイエスさまはどうだ。何も罪を犯していないのに、唾をかけられ、罵られ、痛めつけられ、辱められ、死刑にされたのに、何一つ言い返さなかった。彼は、『父よ、彼らをお赦しください』と言った。なんて、なんて僕は心が貧しいのだろうか。イエスさまとは似ても似つかないものなんだろうか。僕自身、こんなに赦された存在なのに、あのおばさんの小さな小さなとばっちりさえも赦せないとは…。」

・昨日、「汝の敵を愛せ」という聖書の言葉に感動したばかりだった。突き動かされ、頭の中に、ずっとその言葉があったはずだった。なのに、なのに。自分は愚かで浅はかで、なんと貧しいことか。一ミリも、汝の敵など愛せないのだ。ドア脇にいてとばっちりを喰らうくらいで、おばさんを「敵」と思い、怒りと論破したい衝動に駆られて睨みつけてしまった。一人になってから、呪いの言葉を吐き続けてしまった。これが、これが僕だ。「汝の敵を愛せ」という言葉に感動しながら、まったく敵を愛すことなどできない。Facebookではかっこいいことを書き綴るけど、結局そういうやつなのだ。

・そう思ったら、なんか、こういうエピソードもFacebookに書こうと思った。かっこいい自分を作り出すためにFacebookを使うのは簡単だが、結局なにもかっこよくないわけで。誰も赦せない愚かで空っぽなものなわけで。そういう自分にぶち当たった、今朝の電車でした。

2015年6月15日月曜日

働きつづけるために

6/15(月)

・6月の2週目は怒涛の勢いだった。自分が何のために働いているのか、わからなくなる夜があった。1日のスケジュールを思い、気が重くなった朝があった。『こんなことしてて、意味あるのかな。』そんな問いが、浮かんでくる朝は、本当に辛かった。そしてそんな時、人から『よく頑張ってるね。ありがとう。』と言われなければ働き続けられない、自分の動機の脆弱さを味わうのだった。『何のために働いているのか。』その問いは、そんな心からふつふつと湧き上がってくる。

・KGKの働きにおいて、最も気をつけなければならない誘惑の一つは、自分の仕事がうまくいっているかどうかを『充実感』や『充足感』で測ろうとする、という誘惑だろう。充実感がないとき、充足感がないとき、何によって働くか、僕は本当に問われる。

・大事なのは、休息だ。そして、休息の時を『良く』過ごすことだ。リラックスするために、欲を制する必要があることが、僕にはしばしばある。例えば、夜更かししてYouTubeを見ることをやめ、早く寝ること。朝、寝たままゴロゴロしていたい気持ちを抑え、起きてからゆったりすること。すぐバスやエスカレーターを使おうとするのをやめ、隣駅まで緑道を歩くこと。くだらないネット記事を読むのをやめて、好きな小説を読むこと。そして、みことばを読み、ゆっくり祈ること。そういう休息の過ごし方を、選ぶのだ。

・体が疲れた5月から、心が疲れた6月へ。自分も有限な存在だとようやく気付く。背伸びせず、等身大で。また、立ち返って生きる佐藤勇でありたい。

2015年6月12日金曜日

S都大訪問/灰谷文学との出会い

6/11(木)

・この日はS都大を訪問した。学生と聖書を読む中で、本当にそのみことばの深みに引き込まれていくことがある。そういうとき、聖研は本当に面白い。この経験を!いろんなところで重ねたい。

・ひょんなことから、灰谷健次郎を読みあさっている。結婚や家庭、子育てというテーマは僕にとって本当に大事にしたい、学び続けたいトピックなのだが、この灰谷文学に流れる子ども観、人間観、いのち観に揺さぶられる。これぞ、生きるという営み!福音を携え、キリストのものとして、この生きるという営みを重ねられたらと思う。ぜひ、オススメしたい。またブックレビューでも書こうかと、考え中である。

2015年6月8日月曜日

リセット

6/8(木)

・一週間近くお休みしてしまった。が、まあブログはこのぐらい気軽に、やっていければよいかと思っている。この6月頭はわりと疲労感があった。特に金曜日に学校訪問ダブルヘッダーに初トライしてみたが、なかなか体力勝負だということがわかった。でも、学生時代は、聖研を一日二回も味わうことなどなかったので、そういう意味でとても楽しかったし、新鮮な経験だった。

・6月もわりかし忙しめ。さまざまな「せねばならないこと」があるなか、「するべきこと」をしっかりと見据えつつ、地に足つけて、聖書をよく読みよく祈る歩みを続けたいと思う。

2015年6月2日火曜日

T摩美大訪問

6/1(月)

・この日は初のT摩美大訪問。美大だからというわけではないんだろうが、キャンパスが綺麗で、歩いていて気持ちいい。多摩地域の学校のキャンパスは、どこも広くて緑が多いので、気持ちいいなぁと思う。聖研では、2人の学生と創世記のアブラムの召命のところから学ぶ。停滞した歩みから、一歩前に踏み出すこと。そのチャレンジを受ける。初めて会う学生とも、聖書を読む中で仲良くなれるのは本当に恵み。感謝なことだった。

・どうでもいいことだが、美大と言われると、全部の建物がいやにかっこよく見えてきたりする。笑


2015年6月1日月曜日

信徒学校/家族で聖書

5/31(日)

・この日は教団のイベント『信徒学校』があり。引退された牧師先生3人から、牧会の喜びと、またそれぞれの証を聞く。40年も50年も、牧会生活をされてきた先生方から出てくる言葉は本当に重く、また説得力がある。『信徒の交わり』を本気で考える牧師先生の姿に胸打たれた。

・夜は、家族でみことばを読んで分かち合いをするということを初めてみた。ひとまず使徒の働き1:1-11まで。『ルカの福音書があって、この使徒の働きがある』という連続性から、福音なき働きはなく、また働きが生まれない福音もない、ということを強く思わされる。そういえば、今まで両親の分かち合いを聞くことがあまりなかったなぁと思い、これからも続けたいと思わされた。