2015年7月3日金曜日

聖化についての考察

ウェストミンスター信仰告白14.2
「…救拯的信仰の主な行為は、義認と成果と永遠の命のため、恵みの契約に基づいて、ただキリストのみを認め、受け入れ、寄り頼むことである。」

・救拯的信仰とは、救いを得させる信仰のこと。その行為は、「キリストのみを認め、受け入れ、寄り頼むことである」と、ウェストミンスター信仰告白はいう。このことは非常に重要だ。この文言によって、「救いは完全に神の恵み」ということと「救いにおける人間の行為」という、一見相反する二つの事柄が交じり合うからだ。

・最近の僕のテーマは、「聖化」。聖なるものにされていくとはどういうことなのか、ということだ。聖書では、救われた私たちは「キリストに似せられていく」と約束されている。しかし、実際の生活は変わっていない気がする。この矛盾を、どう捉えればいいのか。

・まず、私たちが立ちたいのは、私たちがキリストによって贖われて、義とされているという地点である。そこを疑わず、信じるところから始まりたい。すると、次の文言が非常に力強くまた現実的な響きを持ち始める。

ウェストミンスター信仰告白13.3
「この戦い(腐敗の残部と聖化の戦い)において、残っている腐敗が、一時、大いに優勢になることもあるが、それでもキリストの聖化のみたまからくる継続的な力の補給によって、再生の側が勝利を得る。それで聖徒たちは、恵みに成長し、神を恐れて聖潔を完成して行く。」

・私たちは、存在、人格、行い、全てにおいて堕落している。そして、それら全てを覆う義の衣として、キリストを着せられている。その事実が、私たちを聖化の道に歩ませてくれる。福音主義は、律法主義の対義語であると僕は思う。イエスキリストの福音によって、贖われたということ。イエスキリストのみを認め、受け入れ、寄り頼むことから始める一歩は必ず祝福され守られると信じる。

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