・「本当の絶望」―このクリスマス、僕にとって間違いのない一つのキーワードだ。
・最近、太宰治を読む。そして、今日遠藤周作『海と毒薬』を読み終えた。それは日常の傍らにある小さな黒い穴ぼこが、どこまでも深く悲しい深淵へと繋がる恐怖を淡々と描いた作品であるように感じた。
・僕が太宰を読む理由。それは、そこに人の「本当の絶望」があるように思うからだ。突き詰めたリアリズムがそこにあるように思うからだ。人間であることの本質が、そこにあるように思うからだ。彼が描く人間は、まったく浮世離れしていないし、ファンタジックでもない。それは、まぎれもなく今日を生きている僕を映す鏡だ。そこにいる登場人物たちが淡々と破綻していく様子を見て、僕は通勤電車に揺られながらその姿に自分を見ている。
・それは、決して僕が破綻していくということを意味しない。しかし、僕が破綻するような存在であることを意味する。それは、おそらく僕のもう一つの末路を表す鏡なのである。だから太宰の作品も、遠藤周作の作品も、僕にとっては恐怖すら感じるものなのだ。僕がそこにいるようなリアリティ。いや、僕がそこにいたらきっと僕もそうなっていただろう、そうなっていたに違いないという確信が、僕の中にニョキニョキと生えてくる。その瞬間の恐怖は、何とも表現し難い生理的な恐怖である。
・自分の罪、ということを考えるとき、僕はこの太宰や遠藤周作の作品が持っている人間存在への絶望的なリアリズムが欠かせないように思う。そこには、間違いなく人間がいる。助けを求めている人間がいる。今日僕を含めたほとんどの人が目を背けている人間の凄惨な現実が、そこにはドロッと流れている。
「彼は死ぬために生まれた。僕は生きるために生まれた。」
・夜、一人で部屋で聞いた或る賛美は、僕に重い重い事実を伝えた。僕が生きるために必死になっている時、ただ死ぬために、生まれて来られた方がいた、という。
・本当の絶望。それは、人間存在が抱えている破綻への傾向である。本当の絶望。それは誰のことも信じられない猜疑心である。本当の絶望。それは、自分に価値がないという確信である。
「彼は死ぬために生まれた。僕が生きるために生まれた。」
・彼は、僕「が」生きるために生まれて来られた。僕に価値があるといって、それだけの価値がお前にはあるんだと叫んで、僕が必死で生きるために、生まれて来られ、死なれたのだ。イエス・キリスト。
・今週は、ただただこの事実を噛みしめて生きる一週間にしたい。
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