2015年6月20日土曜日

今朝の出来事

6/20(土)

・今日の朝の電車の中での出来事。ドア脇に立っていたら、あるおばさんが乗ってくるなり「あんたみたいにずっと乗ってる人がそういうとこに立ってるのは本当に非常識なのよ、わかる?」とまくし立ててくる。思わず「…はあ?」と言って思いっきりにらみつけてしまう。なんだこいつ、と。「あんたみたいにそうやって長い間乗る人がそこを占領するから私みたいな年寄りは大変な思いするわけ。わかる?文化と世代の違いだからわからないかしら。本当に非常識なことよ。ほんと迷惑だし、ね。あんた。」とまくし立て続けるおばさん。「…すんませんでした。どうぞ。」必死で怒りを抑え、でも抑えきれず、これでもかとにらみつけながら、そのスペースを譲る。「あら、譲ってくれるの?ありがと、私こう見えても80のくそばばあですから!!」となぜか語気を荒げるおばさん。その一言に、僕も限界。「あのね、おばさん。そういう言い方はないんじゃないですか。そういう言い方されるとこっちもすげえ腹が立つんですけど。」「あらそ、腹が立つのはそっちの勝手だけど、まあこの喋り方はもう育ちの問題だから、もし不愉快にさせたのならそこは謝るわ、ごめんなさいね、でも仕方ないことだしそれは文化と世代の違いだから。」と、一ミリも謝る気のないわけのわからない謝罪。しまいには僕は一歩も歩いてないのに「歩きスマホ」について説教をされる。このころから僕は「このくそばばあ」と言いたくなる気持ちを必死で抑えていたが、次の駅で止まるやいなや、もう我慢できないと思い、車両を変えた。「あら、こんなすぐ下りるのね、だったらよかったわ」というわけのわからない一言が、背中に届いたのを振り切って。

・吉祥寺の駅の階段を下りながら、僕はそのおばさんへの怒りをぶつぶつ口汚く吐き出していた。でも、一向に気持ちはすっきりしない。それどころか、どんどんもやもやしていく。そして、気付く。「僕は、こんな程度のとばっちりに対して、ここまで腹を立て、どうにかして相手を論破し、自分が正しいのだから一言嫌味をいうくらいの権利はある、くらいに考えている。でもイエスさまはどうだ。何も罪を犯していないのに、唾をかけられ、罵られ、痛めつけられ、辱められ、死刑にされたのに、何一つ言い返さなかった。彼は、『父よ、彼らをお赦しください』と言った。なんて、なんて僕は心が貧しいのだろうか。イエスさまとは似ても似つかないものなんだろうか。僕自身、こんなに赦された存在なのに、あのおばさんの小さな小さなとばっちりさえも赦せないとは…。」

・昨日、「汝の敵を愛せ」という聖書の言葉に感動したばかりだった。突き動かされ、頭の中に、ずっとその言葉があったはずだった。なのに、なのに。自分は愚かで浅はかで、なんと貧しいことか。一ミリも、汝の敵など愛せないのだ。ドア脇にいてとばっちりを喰らうくらいで、おばさんを「敵」と思い、怒りと論破したい衝動に駆られて睨みつけてしまった。一人になってから、呪いの言葉を吐き続けてしまった。これが、これが僕だ。「汝の敵を愛せ」という言葉に感動しながら、まったく敵を愛すことなどできない。Facebookではかっこいいことを書き綴るけど、結局そういうやつなのだ。

・そう思ったら、なんか、こういうエピソードもFacebookに書こうと思った。かっこいい自分を作り出すためにFacebookを使うのは簡単だが、結局なにもかっこよくないわけで。誰も赦せない愚かで空っぽなものなわけで。そういう自分にぶち当たった、今朝の電車でした。

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