2015年12月22日火曜日

僕が生きるために

・「本当の絶望」―このクリスマス、僕にとって間違いのない一つのキーワードだ。

・最近、太宰治を読む。そして、今日遠藤周作『海と毒薬』を読み終えた。それは日常の傍らにある小さな黒い穴ぼこが、どこまでも深く悲しい深淵へと繋がる恐怖を淡々と描いた作品であるように感じた。

・僕が太宰を読む理由。それは、そこに人の「本当の絶望」があるように思うからだ。突き詰めたリアリズムがそこにあるように思うからだ。人間であることの本質が、そこにあるように思うからだ。彼が描く人間は、まったく浮世離れしていないし、ファンタジックでもない。それは、まぎれもなく今日を生きている僕を映す鏡だ。そこにいる登場人物たちが淡々と破綻していく様子を見て、僕は通勤電車に揺られながらその姿に自分を見ている。

・それは、決して僕が破綻していくということを意味しない。しかし、僕が破綻するような存在であることを意味する。それは、おそらく僕のもう一つの末路を表す鏡なのである。だから太宰の作品も、遠藤周作の作品も、僕にとっては恐怖すら感じるものなのだ。僕がそこにいるようなリアリティ。いや、僕がそこにいたらきっと僕もそうなっていただろう、そうなっていたに違いないという確信が、僕の中にニョキニョキと生えてくる。その瞬間の恐怖は、何とも表現し難い生理的な恐怖である。

・自分の罪、ということを考えるとき、僕はこの太宰や遠藤周作の作品が持っている人間存在への絶望的なリアリズムが欠かせないように思う。そこには、間違いなく人間がいる。助けを求めている人間がいる。今日僕を含めたほとんどの人が目を背けている人間の凄惨な現実が、そこにはドロッと流れている。

「彼は死ぬために生まれた。僕は生きるために生まれた。」

・夜、一人で部屋で聞いた或る賛美は、僕に重い重い事実を伝えた。僕が生きるために必死になっている時、ただ死ぬために、生まれて来られた方がいた、という。

・本当の絶望。それは、人間存在が抱えている破綻への傾向である。本当の絶望。それは誰のことも信じられない猜疑心である。本当の絶望。それは、自分に価値がないという確信である。

「彼は死ぬために生まれた。僕が生きるために生まれた。」

・彼は、僕「が」生きるために生まれて来られた。僕に価値があるといって、それだけの価値がお前にはあるんだと叫んで、僕が必死で生きるために、生まれて来られ、死なれたのだ。イエス・キリスト。

・今週は、ただただこの事実を噛みしめて生きる一週間にしたい。

2015年12月11日金曜日

待降節、痛みの中で

「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。」
―コロサイ3:15


・この言葉が、何度も心を巡る。キリストの平和が、僕の心を支配してくれることを心の底から願う。そしてそれは、僕の心が本当にざわついている証拠でもある。

・どんな時に心がざわつくのか。それは、心の傷に何かが触れたとき。そういうとき、僕は攻撃的になる。まるで何かを必死に守るかのようにムキになる。それは巣を守る蟻のように慌てふためく姿。

・その根底には、恐怖がある。自信のなさがある。これでいいのだろうかという不安がある。だからこそ、怖くなる。指摘されると、そこが疼く。図星だから、ムキになる、感情がむき出しになる。そんな自分が到底受け入れられなくて、泣き寝入りする。けれど、まったく眠くない。眠れない。

・最近太宰治を読む。響くものを感じる。人間の一つの真の姿があそこにまっすぐ描かれているように思う。だから、ちょっと安心すらする。けれど、そこに平安はないし、ましてや解決などない。あるのは絶望、混沌、闇である。一寸先とは言わない。もう、そこが、闇だ。


「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。」
―ヨハネ1:9

・待降節、と呼ばれるこの季節。降誕を待つ季節、だ。降誕。そう、主イエスは「降りて」「誕生」された。すべての人を照らす光。まことの光。世にこようとしていた。その世は、まさに闇である。


「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」
―ヨハネ1:4

・「主イエスよ、来てください。」という言葉で、聖書は終わってゆく。この祈りを、いや、叫びを、僕はこの季節、『斜陽』片手に祈りたい。主イエスよ、来てください。私の心の傷に、この世の闇に、私の心の疼きに、この世の痛みに、主イエスよ、来てください。


「『しかり。わたしはすぐに来る。』アーメン。主イエスよ、来てください。」
―黙示録22:20

2015年12月1日火曜日

大規模工事

・ぼんやりと、しかし確かに続く不全感がある。何度も振り払おうとしているが、しかし間違いなく心にどっしり腰を下ろしている無力感がある。打ち勝とうと戦いを挑むが、しかし必ず打ちのめされる自分の怠惰さがある。

・最初は単なる働きすぎ、休みの無さからくる疲労感と結果かと思っていたが、必ずしもそうではないかもしれない。これらの一連のことを通して受けた影響は、思った以上のものだからだ。

・まず、この状態からなかなか回復しない。というか、もしかしたらそもそも回復なんかしないものなのかもしれない、と最近は思うようになってきた。体の疲労であれば、休めば治る。しかし、休んでも休んでも、募るのは罪悪感や働けていない不全感で、体と心のバランスは崩れていく感じがする。

・そして、その状態は人との関係をめんどうに思う傾向へと自分を引きずり込む。人と会いたくない、話したくない。そういう思いになる。そして、ふとしたときに自分と全く関係のない人に自分の感情をぶつけたくなったりする。このアンバランスさも、今の自分の特徴だ。

・やる気がわかないからやりたくない。このロジックが自分の中では思った以上の地位を占めていて、やる気がないのにやらなきゃいけないというのが、思った以上にストレスになっているのではないか、というのが、現時点での自分についての精一杯の分析だ。

・やる気のルーツは、ほめられること、評価されること。思えば、大学を卒業するまで、そのやる気が絶えることはなかった。課題、レポート、宿題、バイト。すべての働きで、ほめられ、評価されることを目指していたし、それを得て、原動力にしていた。

・今の働きが評価されていないわけではない。しかし、少なくとも評価を原動力とする生き方では行き詰まる働きであることは確かなようだ。身をもって、それを、感じる。痛感する。

・とするならば。変わるべきは、僕の原動力のシステムであり、生き方そのもののロジックなのか。そう思ったら、そりゃあ疲れるし辛いよなぁと、妙に納得している自分が居た。

・『2,3日で得た変化は、2,3日で失われていくよ。』ある先輩主事の言葉が響き始める。そうだなぁと思う。これは、僕が思ったより大規模工事なのかもしれないと、思い始めた。そう思ったら、完成図をおぼろげに見ながら、ほんのちょっと、でも確かな期待の灯火が心に灯った気がした。