2016年7月20日水曜日

神様が、今日語られた

・「神様って、生きておられるんだなあと思いました。」今日、説教を終えた直後のある学生のレスポンス。本当に嬉しかった。なぜなら、僕も本当にそう思うから。

・説教を準備しながら思うことがある。それは「神様は生きておられる」ということ。あの群れに、今月、神様が語ろうとしておられることがある。そのために、神様が言葉を紡いでおられる。わたしにとって、説教とはそういう時間。あの群れに、主が語られる。あの日集められた民に、神様が語ろうとしておられることがある。

・それを受け取ってくれる学生がいる。感謝なことだ。そして、「勇さん、いい説教ありがとうございました」と労ってくれる。本当に嬉しいことだ。そして、同時に思う。神様が、いいことばを紡いでくださったのだよ、と。

・「神様が、今日語られた。」その実感をもってメッセージを聞き終える人がどのくらいいるだろうか。これはみことばを取り次ぐものとしては常に緊張感を持つべき事柄ではないだろうか。神様が語られたということをどこまでも大事にしなければ、「説教」と「説得力のある講話」の境目に徐々に靄がかかっていく。

・だから、今日の学生のレスポンスは本当に嬉しかった。「神様って、生きておられるんだな。」このリアリティーがある説教の時間を目指したい。月に一度の説教の時間が、主の躍動を、主の脈打つ生命の息吹を、学生とともに感じる時間でありたいのだ。

2016年7月12日火曜日

ベール

・人から愛されることを願う。人から評価されることを求める。人に労ってほしいと思う。慰めてほしい、励ましてほしいと思う。認めてほしいと思う。

・僕にはこのような願い、求め、思いがとてもある。そして、それを実際に会話の中で暗に要求したりする。それに乗っかって僕を労ったり、慰めてくれる人がいる。すると僕はうれしい気持ちになる。

・一方で、それには乗っからない人もいる。意識して乗らない人もいれば、無意識に乗らない人もいる。すると僕はちょっと落ち込んで、失望して、「卑屈」という薄いベールで心を覆う。

・調子が悪くなればなるほどその傾向は強まっていく。求め、挫折し、卑屈になる。だんだんベールが壁になっていく。態度や言葉に卑屈さがにじみ出ていく。そして、じわじわと、自分の周りが、壊れていく。

・このような経験を僕は繰り返しているし、きっとこれからも続けていくのだろう。この自分とは、戦い続けねばならない。僕の根底に流れている罪の現実の表出だ。

・今朝、聖書を読んだ後、その自分について黙想してみた。すると、すごく単純な思いが、ふっと降りてきた。

・人から愛されることを願っている。けれども、主はすでに私を愛しておられる。人から評価されることを求めている。けれども、主はすでに私を評価しておられる。人に労ってほしいと思う。けれども、主はいつも私を労っておられる。慰めてほしい、励ましてほしいと思う。主は私をいつも慰め、励ましておられる。認めてほしいと思う。主は私を、いつも、認めてくださっている。

・主にまず求めるべきものを、人に求めている自分に気付く。今までの歩みが偶像礼拝であったと気付く。主にしか埋められない心の渇きを、人で埋めようとしている自分に気付く。海水でのどを潤そうとしていた自分の愚かさに目が開かれる。真水を求める。渇くことのない、主の泉を求める。

・思えば、自分が回心した大学一年生の時のキャンプは、まさにこの一連の流れを味わったキャンプだった。友達ができない。卑屈になる自分。どんどん人が自分から離れていく感覚。一人でもどった最終日の部屋。主に交わりを求めた。すがるように「私の友になってください」と主に祈り求めた。その時に与えられた平安は、今でも心がしっかり感覚として覚えている。

・今朝、その時の平安を味わった。移り行く人の心。安心できるときなど一時もない。けれども、主は変わらない。私たちがどんなに変わっても、主は変わらない。その平安を今朝、私は心に刻んだ。卑屈さのベールが、一枚脱げ落ちたように感じた。



「イエスは答えて言われた。『この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。』」ヨハネ4:13-14

「御霊も花嫁も言う。『来てください。』これを聞く者は、『来てください。』と言いなさい。渇くものは来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。」黙示録22:17

「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」へブル13:8

2016年7月7日木曜日

できることからする

・僕にとって、夏前は何とも言えない重たい時期だ。夏に向けて、用意するべきことや漠然と見える大きな山々に、心がなんとなく重くなる。本当にこれらをこなすことができるのだろうか、という不安は、思ったよりも大きく重たい。

・こういうときに、やる気は思ったよりも出ない。やれそうかも、と思った次の瞬間、何もしたくなくなる。よし、やるか!と立ち上がった瞬間、ほかのことをしたくなる。こういったある種の怠惰さは、次第に自己嫌悪となる。けれども、どんなに自分を嫌悪しても、そこにやる気は生まれてこない。

・うじうじしながら、部屋でゴロゴロしている。携帯を見ている。Facebookに流れてくる友達の「日常」に、無責任に「いいね!」と評価を下している。そこに、やる気は生まれてこない。

・そんな中で思う。なんでこんな状態なんだろうか。そんな中で考える。こんな自分に価値があるんだろうか。そして、そこで僕は気づかされる。自分で自分の価値を造り出そうとしている自分に。

・なしたこと=自分の価値、という等式が、思った以上に僕を支配している。何もなせない自分を受け入れられない自分の根底には、そのような等式がある。やる気が出ない自分は、価値がないと思えてきてしまう。

・こういったうじうじの中で、聖書を開く。聖書はあきらめずに僕の価値を語る。神様の存在を語る。どんな状況にあっても、僕を今日も生かしたもう神様の姿がとうとうと語られ続けている。

・そして、もう一度立ち上がろうと思う。できることしかできない、と思う。僕が今日できることをしようと思う。書くべき原稿がある。返すべきメールがある。けれども、すべきことをする、という以上に、できることしかできないということのほうが、僕にとってはよいスタートラインになる。できることから始めるとき、すべきこともできるようになる、ということが少なくない。

・すべきことを数える以上に、できることから始めたい。一日一つしかできないかもしれない。けれども神様が今日私に託して、私の手足を通して進めようとされている「出来事」があるならば、そのために生きたいと思う。働きの主体は、私ではなく、神様なのだから。

2016年7月4日月曜日

誠実と謙遜



誠実と謙遜。

昨日の説教で心に残った言葉。
今の自分に実に必要な言葉だ。