2016年10月28日金曜日

順序

・物事には「順序」というものがある。この前にはこれをしておかなければとか、この後にはこれをするとか。一つのことがそのものだけで存在したり起こったりすることはほとんどない。何かがあって、何かが起こり、それが何かを生み出す。その繋がりは、誰にも意識されないことも多い、という意味で、ちょっと透明である。

・この繋がりを意識し始めると、ちょっと世界の見え方が変わる。このことの前にはこれがあって、これがなければこのことは存在しえないということがわかったりすると、なにか大事な流れのようなものを感じることがある。川のような、一定の速度で一定の方向に向かっていく、流れのようなものを感じることがある。それは、「運命」という言葉から、その言葉が持つ悲壮感と諦めを取り除いて、そこに自分のことをいつも見つめてくれている暖かい存在を付け加えたような、そんな感じである。安心に近い感じである。

・導き、という言葉が、その感じに一番近い言葉だと思っている。運命という言葉は冷たい。導きには人情というか、人格がある。愛がある。その導きの中を生きる人生は、安心感がある。一定の速度で一定の方向に向かっていく流れ。それが「神様の意図」だとするならば、僕は本当に生きてきてよかったと思うことができる。

2016年10月12日水曜日

止まる筆

・また、久しく筆が止まってしまった。ただ、それは決してただの悪いことではなかったように感じている。というのも、僕が日常的に書くものとして、①三行日記②感謝ノート③思索ノート④ブログ(これ)という4種類があるが、その前者2つがしっかり書けているときは比較的健康な時で、後者2つの筆が止まらないときは何かしらに苦しんでいるときことが多いからだ。このブログの筆が止まってしまった間、僕は間違いなく日常を走り抜けていたし、筋肉痛になるほど笑ったし、怒られるほどはしゃいだ。主事としての歩みを一つ一つ噛みしめながら、奥歯でゆっくり強靭に噛みしめながら歩いた。だから、きっと、思索は深まり分かち合いたいことはゆっくりしかも着実に降り積もっていったけれども、パソコンに向かってカチャカチャと語り込む時間はなかったわけだ。それは決してただの悪いことではなかった。と思う。

・久しぶりに、口で後悔した。言わなくてよかったなあと思うことを言い、あんな言い方しなくてよかったなあと思うような言葉を選んでしまった。この後悔―関係各所に頭を下げに奔走したくて仕方なくなるような―は、わりかし久しぶりで、戸惑っている。こんな時、どんなことが誠実を尽くすことになるのか、いや、どんな「類の」誠実を尽くせばいいのか、途方に暮れてしまう。すべて、一点の曇りもなく、自分の身から出た錆だ。

・こんな後悔に、じっと耐え抜くとき、僕は試される。動くか、動くまいか。なんのために動くのかが揺さぶられる。「使命は感情によって揺さぶられるが、使命から生まれる感情は大切にされるべきである。」僕のこの感情は、不気味に僕の心の中心を浮遊している。