2016年6月15日水曜日

聖定論の励まし

・久しぶりの投稿。どうしても滞る時期がある。滞る、ということもひとつの「記録」だと受け止める。久しぶりに、考えたことを書こう。

・KGK主事には研修が豊富にある。今日はそのうちの1つである大嶋総主事による「神学研修」。牧田吉和著『改革派教義学2ー神論』を読み進める。今日は「聖定」がテーマ。

・結論から言うと、本当に励ましに満ちた学びであった。聖定とは、「神の永遠の御定め、ご計画」のこと。神の御心、ご計画についてである。

・聖定、それは決定論や宿命論的なものではない。神様が永遠に定めてくださっていることであると同時に、そこには私たちの自由が生き生きとある。この、二律背反に思える2つの事柄が、ひとつなのだという牧田先生の言葉は、もはや信仰告白であった。

・聖定は、「世界と歴史と人生において起こり来ることの一切を包括している。」この言葉が本当に僕を慰めた。全知全能の神が、もっとも賢く最善であられる神が、すべてのことを定めてくださっている。目の前で起こるすべてのことを、「これは主の御手の中で起きている」と受け取ることは、本当に慰めである。「神の聖定は最善の神の定めである。神の聖定にあっては、このようであれば、あるいはあのようであればよかった、というようなものはない。最も深く配慮されているからこそ、神の聖定は慰めの究極的根拠なのである。」

・「もっとシンプルに生きたい。」学びの前にある分かち合いの時間に、思わず自分から湧き出てきた叫びである。自分も驚いた。そうか、僕はそこに叫んでいたのか、と気づかされた。年や身分に合わない場に出て行き、様々な期待を勝手に感じ、重くなり、逃げたくなり、けれども期待されることは快感でもあり......。その中で、ぐるぐる頭がよくわからないことになり、思考停止してきていた。何のために生きているのか。少しずつピンボケしていってることに、自分自身、薄々気づき始めていた。

・改めて、目の前で起こっていることを主の出来事として受け取る。すべての事柄を、神様の御意志が貫いていることを思い出す。そこにはイエスキリストがおられる。私をこよなく愛し、死んでまで私を愛してくださった神様の御愛のあらわれがそこにある。その救いという厳然たる事実が、今日の私を貫いている。

・神様に救われたものとして生きる。私を救われたイエス様の父なる神様の最善が、今この目の前のことを貫いている。なんという慰めであろうか。なんという活力であろうか。生きよう。そんな思いが湧き上がる。

「イエス・キリストの神の絶対的主権性の告白は、人間の自由の圧迫を意味せず、むしろ人間の自由が感謝と喜びのうちに本来の生き生きとした力を回復することになる。」牧田吉和著『改革派教義学2ー神論』p.159