2015年4月10日金曜日

「語る神」と向き合う一日

4/10(金)

・今日は関東地区主事会の研修→説教研修→主事会セミナーという、黄金の流れ。10時~21時半まで、ずっとKGK事務所にいる一日。必死で語られることに喰いついていった、そんな一日でした。

・関東地区の研修では、改めて「主事」という視点を持つことを励まされる。学生からそのまま主事に、という流れで今がある僕にとって、視点の切り替えというのは一つのテーマ。ビジネスマナーや社会人としてのあるべき姿、礼儀作法などは、「大人扱い」という意味で、主事としての視点を持つことを励ましてくれる。その中で、主事として「いつもイエス様の十字架と復活を見上げていること」というのが最初に語られたことに、僕はすごく感動した。

・説教研修では、「説教とは何か」「説教を語るとはどういうことか」という問いから始まる説教のそもそも論から、実際の説教準備の歩みまでをみっちり。まず、自分自身が御言葉に打たれ、語られ、受けること。自分自身の歩みの中で、御言葉のパワーに浸ること。その大切さが身に染みた。「神が語る」ということの、真実さという意味での「重み」を感じた。僕は聖書を読むとき、どこかであきらめたような、こんなもんだろうというような、不遜な態度でいないだろうかということが問われた。また、その不遜さゆえに、御言葉を読むことから逃げようとする自分の姿があるのではないだろうかと思わされた。ふむ、これはすごく重要なことだ。僕は、「神は語る。そしてそれは必ず成る。」ということを信じて耳を傾けているだろうか。

・そして、極めつけは主事会セミナー。今年「聖書のヒストリオグラフィー」と題して、TCUの菊池先生が担当してくださる。第一回の今日は「旧約聖書の原語①―語る神・応答する人」。説教研修の学びと相まって、本当に「語る神」が迫ってくる学びだった。神が語られるということは、当たり前のことではない。そこには「圧倒的な」力がある。「光よあれ」と言われれば、「光がある」ようになるという、絶対的力を持つ「言葉」。言葉には「質量がある」とおっしゃった、その表現もすごく迫ってくるものがあった。聖書は何かふわふわした、抽象的なことを言っているのではない。具体的で、実際的なことを、動的な、迫ってくる言葉によって伝えてくれるのだ。神の御言葉として、聖書を読む。そのシンプルかつ力強い現実に、しっかり目を向けていきたいと思わされた。

・総じて今日は、「語る神」と向き合う一日であった。

0 件のコメント:

コメントを投稿