2015年11月24日火曜日

MOROHA

・凄まじいアーティストに出会った。その名は『MOROHA』。タイトで技巧的なギターと、そのリズム感を揺さぶる魂の叫び系ラップ。こんなに歌詞が心を鷲掴む音楽は久しぶりだ。

・中でもこの『革命』という曲は、本当に心を揺さぶってきた。


・『飲み会の帰り道に突如やってくるあの虚しさ、あれ、やばくね?』という問いかけから始まるこの曲。現代の若者の心の本当の奥にある、仕舞い込まれている本質的な叫びに届く言葉が並ぶ。等身大の歌詞が汗のように飛び散って、聞き手の心に染み込む。

・頼るものがない暗さ、先が見えないことへの不安、がむしゃらに生きることへの渇望。いのちをどう生きていくかということに、思いっきりぶつかってやろうという青さが光る。

・この世界観がどうこう、ということの前に、こんな等身大の体液のような、内臓から湧き出るような言葉を持つものになりたいと強く思った。

2015年11月21日土曜日

ステージ

・若さ、ということを考える。年相応、ということを考える。『人生のステージ』という言葉を、考える。

・綺麗に歩みたい、恥をかきたくない、うまくやりたい、うまく見せたい。そんな思いはなかなかに強い。道を外れたくない、外れるにしても、外れていない外れ方をしたい。綺麗に着地したい。そんな思いは、魂のわりと根元に近いところからきている気がする。

・焦りがふわっと、なくなることがある。いい意味で、どうなってもよいと思える瞬間がある。これは大人になるということなのか、ほんのり不安になる。もっと掻き立てられるようなエネルギーに突き動かされている自分を、どこかに求めている自分がいるのかもしれない。

・改めて、与えられている働きから、自分の位置を考えたい。遣わされた地とはどこなのか、どんな場所なのかを考えたい。『焦り』も『焦りのなさ』も、それ自体の有無よりも、それがどこからくるものなのか、ということの方が、大事なポイントなのかもしれない。

2015年11月18日水曜日

長い単位で

・凄まじい眠気の中で、中央線に乗る。今週は働きのピーク。目まぐるしく過ぎていく日々の中で、本当に大切なものを見失いたくはない。

・ここ最近、将来のことをずっと考えている。2年後、5年後、10年後。自分はどこにいて、誰といて、何をしてるのか。それは決してわからないことだけれど、今からそれを考えて、その時点で吟味して、目の前の一歩を踏み出すことには、間違いなく意味があると思う。

・長い単位で物事を考えると、手放せない!と思っていたものや譲れない!と思っていた条件が、案外大切ではないことに気付いたりすることがある。そして、それを手放すことで、今まで見えていなかった『第三の道』が見えてくるのである。

・改めて、よくよく考えることだ。長い単位で、人生論的に、目の前の出来事を問うことだ。そこから、自ずと一歩目は決まってくる。そして何より、変わることを恐れないことだ。



2015年11月16日月曜日

知ろうとする愛~パリの事件から思うこと

・パリのテロには衝撃を受けた。そして、それに報復して、ISの「首都」を爆撃するというフランスの対応には、さらなる衝撃を受けた。憎しみが憎しみを生む。これは戦争だ。国家間の争いだから戦争だと言われるけれど、根本を正せば、僕と誰かが憎しみ合って、やり、やられ、やり返し…という連鎖を生み出すなら、それはまぎれもなく戦争なのだと、改めて気付く。

・Facebookのアイコンがフランス国旗の色に染まっていく。それを批判的に見る人がいる。それを批判的に見る人を批判的に見る人がいる。それが、顔と顔を合わせてみんなで話し合っているのなら、すごく建設的で、愛に満ちたものになりえるだろうに、SNSという、暴力的に無機質であるにも関わらず人格の深い部分までが垂れ流しになってしまう恐ろしい空間で行われることで、批判は気付けば憎しみとなんら変わらない感情を生み出している。これがまた、SNSの限界点を示しているのかもしれないと、僕は沈黙するしかない自分をちょっとストレスに思いながら納得させている。

・ある尊敬する人は、アイコンをフランス国旗の色に染めることで哀悼の意を示すことができるなら、それをしてもいいという。哀悼の意、それはまさしく愛なのだろう。悲しむ人とともに悲しむ、ということの実践なのだろう。僕はそれを本当に尊いことだと思う。アイコンが何色だろうが、家族を突然奪われた方々に、痛みと絶望の中にある方々のために、とりなし祈り、その悲しみをわが悲しみとすることは、尊いことだし、するべきことだ。愛され、赦された僕だからこそ、それをしたいと痛切に思うし、する。慰めは十字架にあることを、伝えたいと強く思う。

・そして、そこから、他に傷んでいる人がいることを指摘する批判者や、ナショナリズムの危険性を指摘する批判者がいることもまた尊い。盲目的になっている視点を、一つ客観的にしてくれるからである。みんなが一つの思い、感情であることはできない。ましてや、その批判者の心の中には、被害者の方々への哀悼の意が欠如しているかのように見えてしまうこともあるが、必ずしもそんなことはないだろう。いやむしろ、関心があるから、このことに目を向けているから、コメントがでるのだと、理解する心を、僕は持っていたいと思う。

・祈ろう。心から慰めを求めよう。神様だけが慰め主であることを伝えよう。彼らの痛みに寄り添いきれない自分の貧しさを知ろう。結局のところ、それが僕のできる数少ないベストなのだと思っている。

・下北沢のカフェには、英語を必死に勉強し合っているおばあちゃんが二人いた。新しいことを知り、吸収しようというその姿に、他人ながらに心打たれた。人間関係の基本は、知ろうとする愛。知る、という言葉は、人格的な愛を示す。聖書では知るという言葉は、しばしば性的な交わりを意味することもあるほど。交わりの本質に、知る、という行為は位置づけられている。

・パリで起こったこと、その被害者のこと、加害者のこと、パリ以外で起こっている同様の事件のこと、自分の国のこと、家族のこと、友人のこと、苦手なあの人のこと、遠くにいる友達のこと、世界の貧しさのこと、自分のこと、神様のこと。知ろう。知ろう。知ろう。知り続けよう。それが、僕たちのできることなのだと思う。

2015年11月11日水曜日

人を信じる

・人を信じる、とはどういうことだろうか。

・人は人と生きている。人はひとりでは生きていけない。これは本当にその通り。僕自身、本当にそれを痛感している。創世記で『地を従えよ』と命じられている人だが、地のすべてをひとりで従え、管理するのは不可能だ。知らない地、わからない地がある。例えば人を『地』と見たって、単純だ。世界中の人と会えるわけではない。とすれば、本当に交わりで地を従える必要を感ずる。僕には届かない地がある。そこに届く人がいる。僕はその人と共に、地のすべてを従えていくのだ。

・その時に、その人のことを僕がどのくらい信じることができるか、という問いが心に浮かぶ。僕には届かない地に、その人が届く。そのことを、どのくらい僕は喜べるだろうか。自分では届かない地なのだ、ともすれば敗北感や劣等感も湧くだろう。そこで、他のすべてを従えよ、という命令が、民全体で受け取り遂行すべきことであることを、心で覚え、噛み締めていられるか。それが、その人への信頼という形で試される。

・人は究極的には信頼できない、という部分は否めない。最終的に、僕たちが信頼できるのは神様のみなのだと思う。神様がその人を共に働く交わりの一員として、私の眼の前に備えてくれたと信じて、共に働くことが、その人を信じるということなのかもしれない。