2016年5月8日日曜日

恵みに押し出されて

・神様の恵みとは、「良いこと」というレベルを遥かに超えたものである。

・5/3-5の日程で、日本長老教会の全国青年カンファレンス「恵みに押し出されて~僕らは担い手~」に参加してきた。普段は会うことができない、愛する友たちと過ごす三日間は本当に喜びだ。

・その一方で、僕は今回のカンファレンスにくるまで、なんとも重いものを背負っていた。それはあまり言葉にならないもので、どう形容していいかわからないものだった。前回のブログで記したような「自分への絶望」がその根底には流れているように思うが、そんなに単純なものではなかった。人からの評価への依存、「できる奴」と思われたいという願い、むしろ「ダメなやつとは思われたくない」という恐れ、人を失望させたくないという恐怖。そういうドロついたものが、背中にこびりついているような、暗澹たる思いを背負っていた。

・講師のN先生は初日、イザヤ46:1-4を開いた。そこは、偶像を背負い、勝利したときはその神々のおかげだと喜んでいた民たちにとって、負けたときにその神々はただの重たい石であり、家畜に乗せられ運ばねばならない「重荷」でしかなくなってしまっている情景と、私たちを生まれる前から背負い、白髪になってもなお背負って運んでくださる神様の姿が鮮やかに対比されていた。

・人からの評価、人を失望させたくないという思い。それは、上手くいっているときにはまるで自分のエネルギーであり原動力であるように感じられるだろう。しかし、一度失敗や挫折の中を歩むとき、それらは決して僕を助けてはくれない。それどころか、僕を責め立て、追い込んでいく。

・メッセージを聞きながら、石の神々を背負って必死に戦う民たちの滑稽さと、自分の今の姿が重なった。そして、その僕を背負い救い出す約束をしてくださっている神様の存在に気がついた。自分にどんな能力があるからとか、どんな期待に応えられるからとか、そういう理由で僕を背負うのではなく、母の胎にいるうちから、僕に目を留め、「わたしは神、あなたの神。」と言ってくださる神様が、僕を背負って救い出してくださるのだと。

・「恵みに押し出されて。」この言葉の意味は深い。恵みに応えよう!と僕らを鼓舞する言葉ではない。恵みに、私たちは「押し出される」のである。このことを、純粋に味わった。テーマソング「恵みに押し出されて」に、こんな歌詞があった。

これまでの道倒れる私を何度も主は起こされた
これからの道踏み出す私を何度も主は励ます

・この歌詞を、僕は涙なしで歌うことができなかった。これまでの道、倒れる私を何度も主は起こされた。これからの道に踏み出す私を、何度も主は励ましてくださる。なんという恵みだろうか。いいことがあるとか、悪いことがなくなるとか、そういうことではない。主は共に歩んでくださるのだ。それ以上の恵みがあるだろうか。嘆きの日も、喜びの日も、主は私と共に歩んでくださるのだ。それ以上の喜び、平安があるだろうか。

・改めて、インマヌエル、主は共におられるという言葉の慰めを思う。主が共におられ、導いてくださる。その底知れぬ恵みを覚えて、明日を生きたい。