2016年7月12日火曜日

ベール

・人から愛されることを願う。人から評価されることを求める。人に労ってほしいと思う。慰めてほしい、励ましてほしいと思う。認めてほしいと思う。

・僕にはこのような願い、求め、思いがとてもある。そして、それを実際に会話の中で暗に要求したりする。それに乗っかって僕を労ったり、慰めてくれる人がいる。すると僕はうれしい気持ちになる。

・一方で、それには乗っからない人もいる。意識して乗らない人もいれば、無意識に乗らない人もいる。すると僕はちょっと落ち込んで、失望して、「卑屈」という薄いベールで心を覆う。

・調子が悪くなればなるほどその傾向は強まっていく。求め、挫折し、卑屈になる。だんだんベールが壁になっていく。態度や言葉に卑屈さがにじみ出ていく。そして、じわじわと、自分の周りが、壊れていく。

・このような経験を僕は繰り返しているし、きっとこれからも続けていくのだろう。この自分とは、戦い続けねばならない。僕の根底に流れている罪の現実の表出だ。

・今朝、聖書を読んだ後、その自分について黙想してみた。すると、すごく単純な思いが、ふっと降りてきた。

・人から愛されることを願っている。けれども、主はすでに私を愛しておられる。人から評価されることを求めている。けれども、主はすでに私を評価しておられる。人に労ってほしいと思う。けれども、主はいつも私を労っておられる。慰めてほしい、励ましてほしいと思う。主は私をいつも慰め、励ましておられる。認めてほしいと思う。主は私を、いつも、認めてくださっている。

・主にまず求めるべきものを、人に求めている自分に気付く。今までの歩みが偶像礼拝であったと気付く。主にしか埋められない心の渇きを、人で埋めようとしている自分に気付く。海水でのどを潤そうとしていた自分の愚かさに目が開かれる。真水を求める。渇くことのない、主の泉を求める。

・思えば、自分が回心した大学一年生の時のキャンプは、まさにこの一連の流れを味わったキャンプだった。友達ができない。卑屈になる自分。どんどん人が自分から離れていく感覚。一人でもどった最終日の部屋。主に交わりを求めた。すがるように「私の友になってください」と主に祈り求めた。その時に与えられた平安は、今でも心がしっかり感覚として覚えている。

・今朝、その時の平安を味わった。移り行く人の心。安心できるときなど一時もない。けれども、主は変わらない。私たちがどんなに変わっても、主は変わらない。その平安を今朝、私は心に刻んだ。卑屈さのベールが、一枚脱げ落ちたように感じた。



「イエスは答えて言われた。『この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。』」ヨハネ4:13-14

「御霊も花嫁も言う。『来てください。』これを聞く者は、『来てください。』と言いなさい。渇くものは来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。」黙示録22:17

「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」へブル13:8

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