2016年1月8日金曜日

苦しみと慰め

・2016年のキーワードは「苦しみと慰め」になりそうだ。

・主事という働きは勿論、僕にとってキリスト者としてこの地上での歩む中で、「慰め」という言葉がキーワードであることは間違いない。それは、単純な意味で二つに分割することができる。「僕にとっての慰め」と、「あなたにとっての慰め」である。この二つのテーマについて、今年は特に考えてゆきたい。

・僕にとっての慰めとは何だろうか。僕は何に慰められているだろうか。逆に、僕は何がないと傷つくのだろうか。この問いは、なかなかに鋭く心の深層にまで手を伸ばしてくる。それは普段僕の意識に及ばない、認識のグレーゾーンまで届いてくる問いである。しかし、そこまで脳みそをぐいっと引っ張り込んであげないと、見えない世界の価値観がある。そしてそこはいつか取り扱わなければならない領域である。なぜなら、そこの世界の価値観が、僕の実際の歩みを規定する力を持っているからである。改めて、僕にとっての慰めとは、何だろうか。

・あなたにとっての慰めとは何だろうか。あなたは何に慰められているだろうか。僕がどうすることがあなたを本当の意味で慰めることになるだろうか。この問いは、またちょっと性質の違う問いである。ポイントは、その問いが「あなた」と呼ばれる他者の認識のグレーゾーンまで届く問いであることだ。人の慰めになるとはどういうことだろうか。人を本当の意味で慰めるものとは何なのだろうか。同情か、共感か、解決策か。励ましか、寄り添いか。楽観か、悲観か。改めて、あなたにとっての慰めとは、何だろうか。

・慰めと苦しみには関係がある。これは間違いないことだと言っていいだろう。慰めを必要とするのは、多かれ少なかれ苦しみの内にあるときである。本当の慰めがどこからくるのか、その結論だけを振りかざすのではなく、それを舌の奥で味わいたい。そんな一年にしたい。

・今年の教会での説教は第二コリントの講解。3日に開いた手紙の出だしが、今年の御言葉となりそうだ。

「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。」—第二コリント1章4節

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