2016年7月7日木曜日

できることからする

・僕にとって、夏前は何とも言えない重たい時期だ。夏に向けて、用意するべきことや漠然と見える大きな山々に、心がなんとなく重くなる。本当にこれらをこなすことができるのだろうか、という不安は、思ったよりも大きく重たい。

・こういうときに、やる気は思ったよりも出ない。やれそうかも、と思った次の瞬間、何もしたくなくなる。よし、やるか!と立ち上がった瞬間、ほかのことをしたくなる。こういったある種の怠惰さは、次第に自己嫌悪となる。けれども、どんなに自分を嫌悪しても、そこにやる気は生まれてこない。

・うじうじしながら、部屋でゴロゴロしている。携帯を見ている。Facebookに流れてくる友達の「日常」に、無責任に「いいね!」と評価を下している。そこに、やる気は生まれてこない。

・そんな中で思う。なんでこんな状態なんだろうか。そんな中で考える。こんな自分に価値があるんだろうか。そして、そこで僕は気づかされる。自分で自分の価値を造り出そうとしている自分に。

・なしたこと=自分の価値、という等式が、思った以上に僕を支配している。何もなせない自分を受け入れられない自分の根底には、そのような等式がある。やる気が出ない自分は、価値がないと思えてきてしまう。

・こういったうじうじの中で、聖書を開く。聖書はあきらめずに僕の価値を語る。神様の存在を語る。どんな状況にあっても、僕を今日も生かしたもう神様の姿がとうとうと語られ続けている。

・そして、もう一度立ち上がろうと思う。できることしかできない、と思う。僕が今日できることをしようと思う。書くべき原稿がある。返すべきメールがある。けれども、すべきことをする、という以上に、できることしかできないということのほうが、僕にとってはよいスタートラインになる。できることから始めるとき、すべきこともできるようになる、ということが少なくない。

・すべきことを数える以上に、できることから始めたい。一日一つしかできないかもしれない。けれども神様が今日私に託して、私の手足を通して進めようとされている「出来事」があるならば、そのために生きたいと思う。働きの主体は、私ではなく、神様なのだから。

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