2016年4月24日日曜日

神の義

・最近ある友人と話していて思ったことだ。僕は、自分自身のことを「正しく」評価できているのだろうか。

・僕はある人を尊敬している。(もちろん一人ではない。)そして、その人がいうことが、時に僕の考えや思想とは相反すると感じる。それは極めて健全なコミュニケーションとして進み、僕はそれを通して自分は間違っていたとか、自分が偏狭なものの見方をしていたとか、そういうことに気付く。そしてそのプロセスに「成長」という名前を記念碑的につける。

・一方で、僕はある人と話していて、「それは違うだろう」と思うことがある。その考えの組み立て方、思考の経路は、どこかでミスを含んでいると。もしくは、落としている重要なキーポイントがあると。そして(それを指摘するか否かは別として)その人からは、その時の会話からは学び取らないという選択をすることがある。その時の自分は、「成長する」自分ではなく、「成長した」自分である。少なくとも自覚的には。

・こういったやり取りの中で、ふとそういう「自分」は何者なのかという問いが浮んでくる。何かに正しいとか間違っているとかそういう判断を下して生きている自分である。何かを受け入れ何かを拒否している自分である。その自分は果たして本当に「正しい」のだろうか。

・そもそも、本当の「正しさ」を探すことは本当に難しい。そうだ、それは創造主なる神にある。聖書はそれを「正義」と呼ぶ。そして、創造主なる神にこそその正義があり、創造主なる神にのみ、その正義があるという。そしてこう告げる。「神の国とその義をまず第一とするとき、全てが与えられる。」

・神の義とは何だ。神の義をわが義とする生き方とは何だ。そこにある絶対性への畏敬を抱えながら、僕は「自分とは誰なのか」という問いを片手に、「神の義」という言葉を反芻する。

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